坂井成利
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時代 | 戦国時代 - 安土桃山時代 |
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死没 | 慶長5年(1600年) |
別名 | 下総 |
戒名 | 浄清 |
主君 | 織田信長、信雄、豊臣秀吉 |
氏族 | 赤川氏、坂井氏 |
父母 | 赤川景弘 |
子 | 成高、成政 |
生涯
[編集]織田信長の家臣である赤川景弘の子。自身も織田信長に仕えたが、信長の武将である坂井政尚と義兄弟の盟約を結んだため、主命により苗字も坂井氏と改めた。後に信長次男の織田信雄に仕えた。成利は信雄の重臣である岡田重孝と親しかったが、天正12年(1584年)信雄の命で重孝は誅殺された。この時、成利は信雄の命で緒川にいたが、直後の小牧・長久手の戦いでは重孝弟の岡田善同と共に星崎城を守備し、織田勢に敗れて退城した。その後、豊臣秀吉配下となり、伊勢国に2000石を領する。慶長5年(1600年)領内で一揆が起こったためにこれを平定しようとしたが、矢を受けて戦没した。家督は子の成政が継いだ。
出典
[編集]- 「寛政重修諸家譜」巻第582