坂本貞次
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時代 | 戦国時代 - 安土桃山時代 |
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生誕 | 永正15年(1518年) |
死没 | 文禄元年10月18日(1592年11月21日) |
別名 | 兵部丞、豊前(通称) |
戒名 | 順能 |
主君 | 武田信玄→武田勝頼→徳川家康 |
氏族 | 坂本氏 |
父母 | 父:坂本貞重 |
子 | 貞吉、山角正勝の妻 |
坂本 貞次(さかもと さだつぐ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。甲斐武田氏に仕え、その滅亡後に徳川家康に仕えた。
生涯
[編集]『寛政重修諸家譜』が載せる家伝によれば、坂本氏は佐竹氏の支族(常陸源氏)であるといい、家紋も常陸源氏ゆかりの「開き扇」[注釈 1]を用いている[2]。佐竹貞義の子・小瀬義春の子孫というが、『寛政譜』収録の系譜は貞次の父の坂本貞重から始まっている[2]。
貞次の父の坂本宮内貞重は甲斐武田氏の武田信虎・武田信玄に仕えた[2]。貞次も武田信玄・武田勝頼に仕え[2]、駿河国田中城の守備に当たっていたという[2]。天正10年(1582年)に武田家が滅亡すると、貞次は息子の貞吉とともに召し出され、徳川家康に仕えた[2]。貞次は田中城二の丸の守備に当たるとともに、駿河国山西地方(現在の静岡県焼津市などの地域)の代官を務めた[2]。
天正12年(1584年)、小牧長久手の戦いを前に、方ノ上・大覚寺・八楠・越後島・
天正18年(1590年)、徳川家康が関東に入部すると、貞次は相模国高座郡で370石余の知行地を与えられ[2]、相模国大住郡波多野(現在の秦野市付近)の代官職を務めた[2]。
文禄元年(1593年)、76歳で没[2]。
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]参考文献
[編集]- 『寛政重修諸家譜』巻第百三十一
- 『寛政重修諸家譜 第一輯』(国民図書、1922年) 国立国会図書館デジタルコレクション
- 『新訂寛政重修諸家譜 第三』(続群書類従完成会)