コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

坂田莠

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

坂田 莠(さかた はぐさ、1830年天保元年[1]) - 1891年明治24年)3月30日[1])は、幕末高鍋藩士明治時代の官吏神職新川県参事。

経歴

[編集]

日向高鍋藩士[1][2]。藩校明倫堂に学んだのち、大坂で藤沢東畡、江戸で藤森弘庵の門に入る[1][2]慶応年間、幕府秋月種樹若年寄に任じた際は、辞退に奔走した[2]

維新後は新政府に出仕し、高鍋県大参事を経て、1871年(明治4年11月)新川県参事に就任[3]。同年12月18日まで務めた[3]

のち神職に転じ、都農神社宮司、大和神社宮司を歴任した[2]1877年(明治10年)西南戦争では動かず、神官として天下泰平を祈り「素行記事」を記した[2]。来朝した英国王子に対し暴挙を図ると疑われ、三条実美に弁明書を提出した[4]

脚注

[編集]
  1. ^ a b c d 上田ほか 2001, 835頁.
  2. ^ a b c d e 日本歴史学会 1981, 439頁.
  3. ^ a b 保科 1882, 206頁.
  4. ^ 日本歴史学会 1981, 439-440頁.

参考文献

[編集]
  • 保科保 編『地方沿革略譜』報告社、1882年https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/784650 
  • 日本歴史学会 編『明治維新人名事典』吉川弘文館、1981年。ISBN 9784642031141 
  • 上田正昭ほか 監修『講談社日本人名大辞典』講談社、2001年。ISBN 4062108496 
公職
先代
(新設)
新川県参事
1871年
次代
三吉周亮
先代
(新設)
日本の旗 議政官下局議長
1868年
(途中まで大木喬任と、途中から秋月種樹と共同)
次代
秋月種樹