坂田莠
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坂田 莠(さかた はぐさ、1830年(天保元年[1]) - 1891年(明治24年)3月30日[1])は、幕末の高鍋藩士。明治時代の官吏。神職。新川県参事。
経歴
[編集]日向高鍋藩士[1][2]。藩校明倫堂に学んだのち、大坂で藤沢東畡、江戸で藤森弘庵の門に入る[1][2]。慶応年間、幕府が秋月種樹を若年寄に任じた際は、辞退に奔走した[2]。
維新後は新政府に出仕し、高鍋県大参事を経て、1871年(明治4年11月)新川県参事に就任[3]。同年12月18日まで務めた[3]。
のち神職に転じ、都農神社宮司、大和神社宮司を歴任した[2]。1877年(明治10年)西南戦争では動かず、神官として天下泰平を祈り「素行記事」を記した[2]。来朝した英国王子に対し暴挙を図ると疑われ、三条実美に弁明書を提出した[4]。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 保科保 編『地方沿革略譜』報告社、1882年 。
- 日本歴史学会 編『明治維新人名事典』吉川弘文館、1981年。ISBN 9784642031141。
- 上田正昭ほか 監修『講談社日本人名大辞典』講談社、2001年。ISBN 4062108496。
公職 | ||
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先代 (新設) |
新川県参事 1871年 |
次代 三吉周亮 |
先代 (新設) |
議政官下局議長 1868年 (途中まで大木喬任と、途中から秋月種樹と共同) |
次代 秋月種樹 |