坂西利八郎
坂西 利八郎(ばんざい りはちろう、1871年2月5日(明治3年12月16日) - 1950年(昭和25年)5月30日)は、日本の陸軍軍人、政治家。最終階級は陸軍中将。貴族院議員。日本陸軍きっての支那通として知られた。
経歴
[編集]和歌山県出身。坂西良一砲兵大尉の長男として生まれる。陸軍幼年学校を経て、1891年(明治24年)7月、陸軍士官学校(2期)を卒業。翌年3月、砲兵少尉に任官し野砲兵第6連隊付となる。1895年(明治28年)2月から翌年3月まで日清戦争に出征。1896年(明治29年)11月、陸軍砲工学校高等科を卒業。さらに、1900年(明治33年)12月、陸軍大学校(14期)を優等で卒業し参謀本部出仕、参謀本部員をつとめた。
1902年(明治35年)4月北京駐在武官として初めて清国に赴任するや、1904年(明治37年[注釈 1])直隷総督・袁世凱の軍事顧問に任用され、袁が軍機大臣に転任したことを機に退いて1908年(明治41年)5月に帰国。野砲兵第12連隊付から約一年間の欧州視察を経て翌年8月に帰国し、野砲兵第12連隊付へ帰任、野砲兵第9連隊長となる。
1911年(明治44年)辛亥革命の勃発を受けて再び大陸への出張を命ぜられ、1912年(大正2年)中華民国大総統府に聘用され再び袁世凱の軍事顧問に就任(この間に対華21カ条要求が起きている)。袁の病歿後、大総統を継いだ黎元洪、馮国璋、徐世昌、再び黎元洪、曹錕、段祺瑞(臨時執政)ら7代にわたって元首の軍事顧問をつとめ、張作霖が北京に入った1927年(昭和2年)に任期を終え帰国、まもなく予備役に編入された。同年4月18日[1]から1946年(昭和21年)5月14日[2]まで貴族院議員を勤めた。またこの間、太平洋会議の委員にも選任され中国問題を担任した。
1917年(大正6年)8月に陸軍少将、1921年(大正10年)7月に陸軍中将に進級している。
戦後、公職追放となり[3]、1950年(昭和25年)5月30日、脳出血のため鎌倉市腰越の自宅で死去[4]。
栄典
[編集]- 位階
- 1892年(明治25年)7月6日 - 正八位[5]
- 1897年(明治30年)12月15日 - 正七位[6]
- 1903年(明治36年)3月20日 - 従六位[7]
- 1907年(明治40年)12月27日 - 正六位[8]
- 1927年(昭和2年)5月16日 - 従三位[9]
- 勲章等
- 1906年(明治39年)4月1日 - 功四級金鵄勲章・勲四等旭日小綬章・明治三十七八年従軍記章[10]
- 1914年(大正3年)5月16日 - 勲三等瑞宝章[11]
- 1918年(大正7年)9月29日 - 勲二等瑞宝章[12]
- 1940年(昭和15年)11月10日 - 紀元二千六百年祝典記念章[13]
- 外国勲章佩用允許
親族
[編集]著書
[編集]- 『隣邦を語る - 坂西将軍講演集』坂西将軍講演集刊行会、1933年。
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 明治36年末とも。
出典
[編集]- ^ 『官報』第89号、昭和2年4月19日。
- ^ 『官報』第5799号、昭和21年5月17日。
- ^ 『朝日年鑑』昭和22年版、90頁、「公職追放者一覧」。
- ^ 『朝日新聞』 1950年6月3日
- ^ 『官報』第2707号「叙任及辞令」1892年7月7日。
- ^ 『官報』第4341号「叙任及辞令」1897年12月18日。
- ^ 『官報』第5912号「叙任及辞令」1903年3月21日。
- ^ 『官報』第7352号「叙任及辞令」1907年12月28日。
- ^ 『官報』第150号「叙任及辞令」1927年6月30日。
- ^ 『官報』号外「叙任及辞令」1906年12月11日。
- ^ 『官報』第539号「叙任及辞令」1914年5月18日。
- ^ 『官報』第1850号「叙任及辞令」1918年10月2日。
- ^ 『官報』・付録 1941年11月21日 辞令二
- ^ 『官報』第7517号「叙任及辞令」1908年7月17日。