堀江尚志
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堀江 尚志(ほりえ なおし、1897年〈明治30年〉2月23日 - 1935年〈昭和10年〉6月5日[1])は、日本の彫刻家。
略歴
[編集]岩手県[1]盛岡市で鉄道員の堀江磐男の長男として生まれる[2]。1922年、東京美術学校(現・東京芸術大学)彫刻科卒[1][3]。朝倉文夫に学び、第2回帝展、第3回帝展に出展し特選[1]。
1928年(昭和3年)10月、朝倉が帝展に制度改革を建議した上で審査員を辞任。堀江は朝倉を批判し、袂を分つこととなった[4]。1931年(昭和6年)、同じく朝倉塾を脱退した安藤照と塊人社を創立[1]。 1934年(昭和9年)、帝展の審査員に選ばれる[5]。1935年(昭和10年)6月5日、結核のため死去[2]。38歳没。
作品
[編集]- ある女(1920年〈大正9年〉)
- 顔(1922年〈大正11年〉)
- 松橋宗明像(1923年〈大正12年〉)
- 少女座像(1924年〈大正13年〉)
- 狗(1929年〈昭和4年〉)
- トルソ(1932年〈昭和7年〉頃)
- 鯉(1933年〈昭和8年〉)
- 兎(1934年〈昭和9年〉)
- 西君の像(1934年〈昭和9年〉)
- 首(1934年〈昭和9年〉頃)
- 十文字大元像(1935年〈昭和10年〉)
脚注
[編集]- ^ a b c d e 「堀江尚志」『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』 。コトバンクより2022年3月11日閲覧。
- ^ a b “堀江尚志(ほりえなおし)”. 盛岡市公式ホームページ. 2024年11月8日閲覧。
- ^ “堀江尚志 :: 東文研アーカイブデータベース”. 東京文化財研究所. 2024年11月8日閲覧。
- ^ 朝倉塾ついに分裂、残る者わずか二十人『中外商業新報』昭和3年10月18日夕刊(『昭和ニュース事典第1巻 昭和元年-昭和3年』本編p495 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)
- ^ 審査員決まる、新顔は十三人『東京朝日新聞』昭和9年9月6日(『昭和ニュース事典第4巻 昭和8年-昭和9年』本編p411-412 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)