堀江景用
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時代 | 室町時代後期 |
---|---|
生誕 | 不明 |
死没 | 不明 |
別名 | 通称:七郎 |
官位 | 石見守 |
主君 | 朝倉孝景 |
氏族 | 堀江氏 |
父母 | 父:堀江景経? |
兄弟 | 景用、景利、景道、景好 |
子 | 景忠 |
堀江 景用(ほりえ かげもち)は、室町時代後期の武将。朝倉氏の家臣。
出自
[編集]堀江氏は、利仁流河合斎藤氏の系統とされる[1]。景用は堀江氏の庶家[2]の出身である。
生涯
[編集]堀江景経の子とされる。越前国守護・斯波義敏と守護代・甲斐常治が争った長禄合戦において、堀江惣領家(堀江石見家)の堀江利真は斯波方につき、長禄3年(1459年)に甲斐方の朝倉孝景(英林)に討ち取られた。これによって断絶した惣領家を、庶家から景用が継承することとなった。
景用は孝景と共に甲斐方として戦った。以後、朝倉氏の国衆(外様)として活動し、文明6年(1474年)1月18日の杣山合戦で武功を上げたとされる(『 朝倉始末記』)。
歌人としての才能もあったと伝えられる。
大蛇の子の伝承
[編集]『 朝倉始末記』によれば、父とする堀江景経は、笛の名手であり、ある夜、笛を吹いていたところ、その笛の音に誘われるように現れた美女と夫婦となった。
その後、その女性が出産間近になって、「産所には近付かないで欲しい」と頼んだが、景経はその約束を破って中を覗くと、中にいた大蛇が覗かれているのを知ってその場から姿を消し、あとには景用が残されていたという伝承がある。
このような由来から、堀江家の家紋は、爾後「蛇の目」になったとされている。