堃岫
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堃岫 | |
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プロフィール | |
出生: | 不詳 |
死去: | 不詳 |
出身地: | 清満州正白旗 |
職業: | 政治家 |
各種表記 | |
繁体字: | 堃岫 |
簡体字: | 堃岫 |
拼音: | Kūn Xiù |
ラテン字: | K'un Hsiu |
和名表記: | こんしゅう |
発音転記: | クンシウ |
堃岫(こんしゅう、満洲語: ᡴᡠᠨᠰᡳᠣ[1] 転写:kunsio)は、清末民初の政治家。満州族。清朝最後の綏遠城将軍にして、中華民国の初代綏遠将軍。字は子岩、紫岩。
事跡
[編集]かつては理藩部左侍郎をつとめていた。1910年(宣統2年)9月(旧暦)、ウリヤスタイ定辺左副将軍から、綏遠城将軍に任命された(正式着任は、翌年3月(旧暦))。
辛亥革命勃発後の1911年(宣統3年)、閻錫山らの山西革命軍が綏遠方面へ進軍を開始した。堃岫は、大同鎮総兵陳希義に防戦を指示すると同時に、清朝への救援派兵を要求した。しかし、すでに軍事力を喪失していた袁世凱は、この救援要請を無視した。
それでも綏遠・帰化(いわゆる「帰綏」。現在のフフホト市)の両城を守っていた堃岫は、精鋭部隊であるトゥメト旗陸軍により山西革命軍を迎撃する。両軍ともに損害が大きく、山西革命軍はこれ以上の進軍を停止して山西へ引き返した。また、帰綏や包頭の革命派については、堃岫の配下である五原同知・樊恩慶が、謀略によりこれを蜂起前に壊滅させた。
民国が成立した後も、堃岫は引き続き綏遠将軍の地位にあった。1912年(民国元年)10月まで、その任にあった。
以後、堃岫の行方は不明である。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 劉蒙林「(史海鈎沈)清代歴任綏遠城将軍簡述」『内蒙古史志』2006年第6期、内蒙古区情網(内蒙古自治区地方志弁公室ホームページ)
- 東方民族網(民族出版社ホームページ)『蒙古族通史』「210 辛亥帰綏新軍起義」
- 同上「211 山西革命軍与帰綏新軍之戦」
- 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1。
清
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中華民国(北京政府)
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