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堃岫

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
堃岫
プロフィール
出生: 不詳
死去: 不詳
出身地: 清の旗 満州正白旗
職業: 政治家
各種表記
繁体字 堃岫
簡体字 堃岫
拼音 Kūn Xiù
ラテン字 K'un Hsiu
和名表記: こんしゅう
発音転記: クンシウ
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堃岫(こんしゅう、満洲語: ᡴᡠᠨᠰᡳᠣ[1] 転写:kunsio)は、清末民初の政治家。満州族。清朝最後の綏遠城将軍にして、中華民国の初代綏遠将軍。子岩紫岩

事跡

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かつては理藩部左侍郎をつとめていた。1910年宣統2年)9月(旧暦)、ウリヤスタイ定辺左副将軍から、綏遠城将軍に任命された(正式着任は、翌年3月(旧暦))。

辛亥革命勃発後の1911年宣統3年)、閻錫山らの山西革命軍が綏遠方面へ進軍を開始した。堃岫は、大同鎮総兵陳希義に防戦を指示すると同時に、清朝への救援派兵を要求した。しかし、すでに軍事力を喪失していた袁世凱は、この救援要請を無視した。

それでも綏遠・帰化(いわゆる「帰綏」。現在のフフホト市)の両城を守っていた堃岫は、精鋭部隊であるトゥメト旗陸軍により山西革命軍を迎撃する。両軍ともに損害が大きく、山西革命軍はこれ以上の進軍を停止して山西へ引き返した。また、帰綏や包頭の革命派については、堃岫の配下である五原同知・樊恩慶が、謀略によりこれを蜂起前に壊滅させた。

民国が成立した後も、堃岫は引き続き綏遠将軍の地位にあった。1912年民国元年)10月まで、その任にあった。

以後、堃岫の行方は不明である。

脚注

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参考文献

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  • 劉蒙林「(史海鈎沈)清代歴任綏遠城将軍簡述」『内蒙古史志』2006年第6期、内蒙古区情網(内蒙古自治区地方志弁公室ホームページ)
  • 東方民族網(民族出版社ホームページ)『蒙古族通史』「210 辛亥帰綏新軍起義」
  • 同上「211 山西革命軍与帰綏新軍之戦」
  • 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1 
 清の旗
先代
信勤
綏遠城将軍
1910年 - 1911年
次代
(廃止)
 中華民国の旗 中華民国北京政府
先代
(創設)
綏遠将軍
1912年1月 - 10月
次代
張紹曽