塚原二子塚古墳
塚原二子塚古墳 | |
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墳丘(右に前方部、左奥に後円部) | |
別名 | 塚原1号墳 |
所属 |
飯田古墳群(竜丘単位群) 塚原古墳群 |
所在地 | 長野県飯田市桐林3046-1ほか |
位置 | 北緯35度27分53.50秒 東経137度49分14.47秒 / 北緯35.4648611度 東経137.8206861度座標: 北緯35度27分53.50秒 東経137度49分14.47秒 / 北緯35.4648611度 東経137.8206861度 |
形状 | 前方後円墳 |
規模 | 墳丘長73m |
埋葬施設 | (推定)竪穴式石室 |
出土品 | 埴輪、(伝)金銅製冑 |
築造時期 | 5世紀後半 |
史跡 | 国の史跡「飯田古墳群」に包含 |
地図 |
塚原二子塚古墳(つかばらふたごづかこふん)は、長野県飯田市桐林にある古墳。形状は前方後円墳。飯田古墳群(うち竜丘単位群)を構成する古墳の1つ。国の史跡に指定されている(史跡「飯田古墳群」のうち)。
概要
[編集]長野県南部、天竜川支流の臼井川・袋洞沢川の間の小段丘上(標高405m)に築造された古墳である。一帯にはかつて古墳16基が分布して塚原古墳群を形成し、本古墳はその盟主的存在であったが、現在では本古墳以外の多くは失われている。現在までに良好に墳丘を遺存しており、1980年(昭和55年)・2007-2009年度(平成19-21年度)に発掘調査が実施されている。
墳形は前方後円形で、前方部を南南西方向に向ける。墳丘外表では葺石のほか、円筒埴輪(朝顔形埴輪含む)・形象埴輪(蓋形埴輪など)が認められる。また墳丘周囲には盾形の周溝が巡らされ、周溝を含めた古墳全長は86メートルにおよぶ。埋葬施設は未調査のため明らかでないが、後円部墳頂における竪穴式石室と推定される。副葬品も明らかでないが、かつて金銅製冑が出土したという伝承がある[1]。築造時期は古墳時代中期の5世紀後半[2](または5世紀末[3]/5世紀後半-末[1])頃と推定される。
古墳域は2016年(平成28年)に国の史跡に指定されている(史跡「飯田古墳群」のうち)。
遺跡歴
[編集]- 1957年(昭和32年)、耕作時にくびれ部付近で埴輪列の出土[4]。
- 1968年(昭和43年)11月19日、飯田市指定史跡に指定。
- 1980年(昭和55年)、墳丘測量調査[4]。
- 1990年度(平成2年度)、市道建設に伴う後円部北側の発掘調査(飯田市教育委員会)。
- 2007-2009年度(平成19-21年度)、範囲確認調査(飯田市教育委員会、2012年に報告)[1]。
- 2016年(平成28年)10月3日、国の史跡に指定(史跡「飯田古墳群」のうち)。
墳丘
[編集]墳丘の規模は次の通り[1]。
- 古墳総長:86メートル - 周溝を含めた全長。
- 墳丘長:73メートル
- 後円部
- 直径:44メートル
- 高さ:6.2メートル(西側)、7.5-7.6メートル(東側)
- 前方部
- 幅:38メートル
- 高さ:6.0-6.2メートル(西側)、7.4メートル(東側)
墳丘外表では葺石が認められるが、通常のように墳丘の傾斜に沿って積み上げるのではなく、階段状(石垣状)に積み上げ、外見的には基壇状を呈する独特の構造として注目される[1]。
墳丘の周囲には盾形の周溝が巡らされ、後円部側ではその外側にも外周溝が認められる(二重周溝)[1][3]。
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前方部から後円部を望む
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後円部から前方部を望む
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円筒埴輪
飯田市考古博物館展示。
ギャラリー
[編集]-
内山塚古墳(塚原2号墳、円墳)
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塚原3号墳(帆立貝形古墳)
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鏡塚古墳(塚原4号墳、帆立貝形古墳)
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鎧塚古墳(塚原5号墳、帆立貝形古墳)
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 史跡説明板(飯田市教育委員会、2017年設置)
- 「塚原二子塚古墳」『日本歴史地名大系 20 長野県の地名』平凡社、1979年。ISBN 4582490204。
- 小林正春「二子塚古墳 > 塚原二子塚古墳」『続 日本古墳大辞典』東京堂出版、2002年。ISBN 4490105991。
- 「塚原二子塚古墳」『飯田における古墳の出現と展開 -資料編-』飯田市教育委員会、2007年 。 - リンクは奈良文化財研究所「全国遺跡報告総覧」。
- 「塚原二子塚古墳範囲確認調査報告」『飯田古墳群』飯田市教育委員会、2012年。
外部リンク
[編集]- 塚原二子塚古墳 - 飯田市ホームページ