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塩津義雄

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
塩津 義雄
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 鹿児島県
生年月日 (1939-11-25) 1939年11月25日(84歳)
身長
体重
180 cm
77 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 内野手外野手
プロ入り 1958年
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

塩津 義雄(しおつ よしお、1939年11月25日[1] - )は、鹿児島県[2]出身の元プロ野球選手内野手外野手)。

来歴・人物

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鹿児島商業では強打の内野手として知られ、1957年夏の甲子園東九州大会準決勝に進むが、高鍋高に完封負けを喫する。

1958年大毎オリオンズへ入団[2]。同年は最終戦で三塁手として初先発出場を果たす[3]。翌1959年は内野のユーティリティプレイヤーとして13試合に先発。10月17日後楽園球場での西鉄ライオンズとの最終戦で田中喜八郎からプロ入り初本塁打を記録[4]1960年外野手も兼ね、準レギュラーとしてリーグ優勝に貢献。大洋ホエールズとの日本シリーズでは、最終第4戦で右翼手、八番打者として起用されるが1三振1四球に終わった。

1961年は故障もあって出場機会がなかったが、翌1962年には復活。6月20日には東映フライヤーズ土橋正幸から9回裏にサヨナラ右翼適時打を放つ[5]。同年はイースタン・リーグ首位打者を獲得[2]1963年には主に中堅手として自己最多の30試合に先発出場。8月31日には西鉄ライオンズの畑隆幸から4回に決勝3点本塁打を放った[6]

1965年中日ドラゴンズへ移籍したが一軍出場はなく、同年7月24日に自由契約となった[7]

詳細情報

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年度別打撃成績

[編集]
















































O
P
S
1958 大毎
東京
3 5 5 1 2 1 0 0 3 0 0 0 0 0 0 0 0 1 0 .400 .400 .600 1.000
1959 27 62 61 6 14 2 0 1 19 5 0 0 0 0 1 0 0 12 3 .230 .242 .311 .553
1960 42 56 50 6 8 1 0 3 18 6 0 1 0 0 6 0 0 15 1 .160 .250 .360 .610
1962 49 69 68 4 19 3 1 0 24 4 0 3 0 0 1 0 0 16 1 .279 .290 .353 .643
1963 76 140 133 12 30 3 2 2 43 13 5 1 0 0 6 0 1 37 2 .226 .264 .323 .588
1964 59 59 57 4 11 0 0 1 14 4 0 0 0 0 2 0 0 9 2 .193 .220 .246 .466
通算:6年 256 391 374 33 84 10 3 7 121 32 5 5 0 0 16 0 1 90 9 .225 .258 .324 .582
  • 大毎(毎日大映オリオンズ)は、1964年に東京(東京オリオンズ)に球団名を変更

背番号

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  • 25 (1958年 - 1964年)
  • 50 (1965年)

脚注

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  1. ^ 「プロ野球人名事典2001」236-237P、森岡浩、日外アソシエーツ発行、紀伊國屋書店発売、2001年、ISBN 978-4816916694
  2. ^ a b c プロ野球人名事典 2003(2003年、日外アソシエーツ)、263ページ
  3. ^ [キャンプを探る]大毎 充実した主軸打線 読売新聞 1959年2月21日朝刊5ページ
  4. ^ 山内25号 放つ 小野22勝、西鉄を連破 読売新聞 1959年10月18日 6ページ
  5. ^ 塩津、殊勲の決勝打 土橋6連敗 代打策でくずす 読売新聞 1962年6月21日朝刊6ページ
  6. ^ 西鉄、強攻策みのらず 塩津(大毎)の3ランに屈す 読売新聞 1963年9月1日朝刊9ページ
  7. ^ 中日4選手自由契約に 読売新聞 1965年7月25日朝刊9ページ

関連項目

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外部リンク

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