増韞
増韞 | |
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『大満洲国建国紀念写真帖』(1934年) | |
プロフィール | |
出生: |
1860年6月28日 (清咸豊10年5月10日)[1] |
死去: | 1946年[2] |
出身地: |
清吉林将軍管轄区長白山李官鋪 (現在の丹東市) |
職業: | 政治家 |
各種表記 | |
繁体字: | 增韞 |
簡体字: | 增韫 |
拼音: | Zēngyùn |
ラテン字: | Ceng-yün |
和名表記: | ぞううん |
発音転記: | ゾンユン |
増韞(ぞううん、繁体字: 增韞; 簡体字: 增韫; 繁体字: 增韞; 拼音: Zēngyùn; ウェード式: Ceng-yün)は、清末・満州国の政治家。字は子固。モンゴル人。蒙古鑲黄旗の人。
事績
[編集]清の附生(府・州・県で採用された生員)。光緒23年(1897年)に安東県知県、光緒24年(1898年)に承徳県知県と歴任し、光緒25年(1899年)には新民府知府へ昇進した[3]。知府時代は清廉公正な官吏として名声を博し、当時馬賊だった張作霖の招撫に功績があった。更に女性の社会地位向上にも取り組み、纏足を禁止し、女子師範学校を創設したりしている[2]。また剛毅な性格でも知られ、西太后(慈禧)に仕える駕籠かきが良家の子女を襲う事件が起きた際には、増韞は即断で駕籠かきを処刑、その後西太后に上奏した。理があったため、西太后は増韞の罪を問えなかった[2]。
光緒31年(1905年)以降、増韞は奉天府尹、湖北按察使、直隷按察使、浙江巡撫を歴任している[3]。浙江巡撫時代は、民衆からの訴願を自ら審理し、その公正さから「白包公」と評された。また、革命派の秋瑾が処刑されると、彼女の遺骸を杭州西湖湖畔に埋葬し、後に清朝が墓を取り壊そうと図った際にはそれを阻止している[2]。しかし辛亥革命に際しては、宣統3年(1911年)11月3日に浙江省咨議会が反清独立を求めてきたのに対し増韞はこれを拒否し、翌日には革命派の軍により捕縛されてしまった。まもなく釈放され、北方へ戻っている[3]。
満州国建国後の大同2年(1933年)2月12日、増韞は参議府参議に任命された[4]。康徳4年(1937年)5月7日、参議府参議を退任し、宮内府顧問官に移っている[5]。満州国滅亡後の民国35年(1946年)に死去。享年87。
注
[編集]参考文献
[編集]- 「増韞」[リンク切れ]丹東市図書館
- 王鴻賓ほか主編『東北人物大辞典 第2巻』遼寧古籍出版社、1996年。ISBN 7805074135。
- 郭卿友主編『中華民国時期軍政職官誌』甘粛人民出版社、1990年。ISBN 7-226-00582-4。
清
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