増永元也
増永元也 ますなが げんや | |
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生年月日 | 1881年10月23日 |
出生地 |
日本 福岡県八女郡福島町 (現・福岡県八女市) |
没年月日 | 1956年7月5日(74歳没) |
死没地 | 日本 福岡県八女市 |
出身校 | 東京帝国大学工科大学電気工学科卒業 |
前職 | 鉄道省電気局長 |
所属政党 |
(立憲政友会→) 翼賛議員同盟 |
親族 |
伯父(叔父)・中村雄蔵(衆議院議員) 祖父・中村彦次(衆議院議員) |
選挙区 | 福岡県第3選挙区 |
当選回数 | 1回 |
在任期間 | 1937年 - 1942年4月29日 |
増永 元也(ますなが げんや、1881年(明治14年)10月23日[1] - 1956年(昭和31年)7月5日[2])は、日本の官僚・政治家。衆議院議員。玄洋社社員[3]。
経歴
[編集]福岡県八女郡福島町(現・八女市)に生まれる。1899年(明治32年)、福岡県中学修猷館[4]、1902年(明治35年)、第五高等学校工科[5]を経て、1906年(明治39年)、東京帝国大学工科大学電気工学科を卒業[6]。
卒業後、逓信省鉄道作業局に入省し技師となり、1914年(大正3年)7月、逓信省鉄道作業局の後身である鉄道院より、鉄道に関する電気事業研究のため米国およびドイツに1年間留学。その後、鉄道院の後身である鉄道省の電気局通信課長[注釈 1]を経て、1927年(昭和2年)5月16日に鉄道省電気局長に就任[9]。
1937年(昭和12年)4月、第20回衆議院議員総選挙で福岡県第3区に立憲政友会から立候補し当選。1940年(昭和15年)7月に立憲政友会が解党後、1941年(昭和16年)9月に翼賛議員同盟が結成されるとこれに所属した。
代議士を務めたのは1期のみで、1942年(昭和17年)4月、第21回衆議院議員総選挙(翼賛選挙)の投票の当日、「南方派遣軍経済交通顧問」として福岡から飛行機でシンガポールに向かった。マレーとスマトラを統治する第25軍の嘱託(勅任待遇)として約1年間シンガポールに滞在した。この間、南方各地を回り、特にスマトラのトバ湖を利用した電源開発について調査、またスマトラ横断鉄道を着想した。
実業界においては、九州送電顧問、九州共同火力発電取締役、大同信号顧問などを歴任した。
1956年(昭和31年)7月5日午前4時45分、八女市の自宅で死去した[2]。
著書
[編集]親族
[編集]出典
[編集]注釈
[編集]脚注
[編集]- ^ 衆議院『第七十一回帝国議会衆議院議員名簿』〈衆議院公報附録〉、1937年(昭和12年)、29頁。
- ^ a b 『国会 9(7)(99)』 - 国立国会図書館デジタルコレクション
- ^ a b 石瀧豊美『玄洋社・封印された実像』海鳥社、2010年、玄洋社社員名簿58頁。
- ^ 『修猷館同窓会名簿 修猷館235年記念』(修猷館同窓会、2020年)同窓会員3頁
- ^ 『第五高等学校一覧(自昭和11年至昭和12年)』(第五高等学校編、1936年)199頁
- ^ 『東京帝国大学一覧(從大正7年至大正8年)』(東京帝国大学、1919年)學士及卒業生姓名203頁
- ^ 『官報 1921年06月09日』 - 国立国会図書館デジタルコレクション
- ^ 『官報 1921年06月09日』 - 国立国会図書館デジタルコレクション
- ^ 『官報 1927年05月17日』 - 国立国会図書館デジタルコレクション
参考文献
[編集]- 『激動の日本政治史 - 明治・大正・昭和歴代国会議員史録(下巻)』(阿坂書房、1979年) 2205頁