壬生雅久
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壬生 雅久(みぶ まさひさ、生年不詳 - 永正元年11月22日〈1504年12月28日〉)は、室町時代の官人。治部卿・壬生晴富の子。官位は正四位上・左大史。壬生家15代当主。
経歴
[編集]主殿頭を務めながら、康正2年(1456年)従五位上、文正2年(1467年)正五位下、文明元年(1469年)正五位上と昇進する。文明4年(1472年)父の晴富から譲られて官務・小槻氏長者となるも、当時は応仁の乱の最中で、雅久は東軍に属したが、西軍にとどめられていた晴富から官務としての指導を受けられず、資料もなく苦労した様子が窺われる[1]。
のち、延徳3年(1491年)従四位上、明応元年(1492年)正四位上に至る。しかし、明応3年(1494年)に大宮家の大宮長興の圧力に屈して、その子息である時元に官務・氏長者職を奪われた。晩年には長く病み、永正元年(1504年)10月末には言語不分明で狂乱状態となり、官文庫に保管していた伝来の文書を売却する挙に出ている[2]。同年11月22日卒去。
人物
[編集]詩文を作ったほか、吉田兼倶による『日本書紀』神代巻の談義を聴講し、それを細川政元に対して講じたこともあった。日記に『雅久宿禰記』がある[1]。
官歴
[編集]注記のないものは『地下家伝』による。
- 時期不詳:従五位下。主殿頭
- 康正2年(1456年) 7月20日:従五位上
- 文正2年(1467年) 正月5日:正五位下
- 文明元年(1469年) 10月29日:正五位上
- 文明4年(1472年) 8月28日[3]:左大史、官務、氏長者
- 文明6年(1474年) 6月7日:従四位下
- 延徳3年(1491年) 12月20日:従四位上
- 明応元年(1492年) 日付不詳:正四位上[1]
- 明応3年(1494年) 12月:辞官務[4]
- 永正元年(1504年) 11月22日:卒去[1]
系譜
[編集]『系図纂要』による。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 朝日新聞社『朝日日本歴史人物事典』朝日新聞社、1994年。ISBN 4023400521。全国書誌番号:95012447。
- 正宗敦夫編『地下家伝』日本古典全集刊行会、1938年
- 湯川敏治編『歴名土代』続群書類従完成会、1996年
- 森田大介「「室町期の官文庫について」」『大正大学大学院研究論集』第38巻、大正大学、2014年3月、147-165頁、CRID 1050001202956818944、ISSN 03857816。