夏時正
夏 時正(か じせい、永楽10年(1412年)- 弘治12年12月8日(1500年1月8日))は、明代の官僚。名は尚、字は時正で、字をもって通称された。のちに字を季爵と改めた。本貫は杭州府仁和県。
生涯
[編集]夏誠の子として生まれた。正統10年(1445年)、進士に及第した。刑部主事に任じられた。景泰6年(1469年)、刑部郎中として福建の囚人を記録したところ、死罪の者60人あまりが出ていた。中には死罪を減刑され、沿海の軍で兵士とされている者がいたが、時正はかれらが海賊となるのを憂慮して、山東に転地させ、その後に奏聞した。福建で死刑囚を減刑したときには、北方に行かせて兵士とするのがよいと提案した。法司はその言を是としながらも、詔に反して独断で転地させたことを罪とした。景泰帝は特別にこれを許した。
天順初年、大理寺丞に抜擢された。天順6年(1462年)5月、南京大理寺右少卿に転じた[1]。成化4年(1468年)8月、南京太常寺少卿となった。成化5年(1469年)6月、大理寺卿に転じた[2]。成化6年(1470年)春、江西の被災地の巡視を命じられた。無名の税十数万石を除き、諸司の不必要な労役数万を選り分け、職務怠慢な官吏200人あまりを罷免するよう上奏した。南昌府の贛江沿岸の堤防と豊城県などの土手を増築した。成化7年(1471年)2月、弾劾されて致仕した[3]。布政使の張瓚が西湖書院を築くと、時正はそこに居住した。弘治11年(1498年)、布政司の楊峻に迎えられて杭州の家に帰った。弘治12年12月癸巳(1500年1月8日)、死去した。享年は88[4]。著書に『深衣考』1巻・『三礼儀略挙要』巻10[5]『太常志』10巻・『杭州府志』64巻[6]・『留余稿』35巻[7]があった。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 『明史』巻157 列伝第45
- 王同『唐棲志』巻11上