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夕鶴

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
『夕鶴』のつうを演じる
山本安英(木村伊兵衛撮影、1952年)

夕鶴』(ゆうづる)は、木下順二作の戯曲。「鶴女房」(内容は鶴の恩返し)を題材としている。

雑誌『婦人公論1949年1月号に掲載された[1]。初演は1949年(昭和24年)10月27日、場所は奈良県丹波市町(現・天理市)の天理教施設で、劇団『ぶどうの会』が、演出岡倉士朗、主演山本安英で上演した[2][注釈 1][注釈 2]

山本を主演とする公演は、1986年までに1037回実施された[5]

登場人物

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与ひょう(よひょう)
つう
運ず(うんず)
惣ど(そうど)
子供たち

物語

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与ひょうは、ある日罠にかかって苦しんでいた一羽の鶴を助けた。

後日、与ひょうの家を「女房にしてくれ」と一人の女性つうが訪ねてくる。夫婦として暮らし始めたある日、つうは「織っている間は部屋を覗かないでほしい」と約束をして、素敵な織物を与ひょうに作って見せる。

つうが織った布は、「鶴の千羽織」と呼ばれ、知り合いの運ずを介し高値で売られ、与ひょうにもお金が入ってくる。その噂を聞きつけた惣どが運ずとともに与ひょうをけしかけ、つうに何枚も布を織らせる。

約束を破り惣どと運ず、さらには与ひょうは、織っている姿を見てしまう。そこにあったのは、自らの羽を抜いては生地に織り込んでいく、文字通り"我が身を削って"織物をしている与ひょうが助けた鶴の姿だった。正体を見られたつうは、与ひょうの元を去り、傷ついた姿で空に帰っていくのだった。

作品の素材

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新潟県佐渡郡相川町北片辺(現・佐渡市)に伝わる民話「鶴女房」をもとに作られた[6][注釈 3]

しかし、ストーリーは本来の民話や童話よりも複雑で、「お金」に取り憑かれていく人間と「お金」を理解しない鶴という対比によって、暗に経済至上主義への批判を行っている[要出典]

制作・上演史

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木下が本作を執筆したのは1948年である。木下のメモによると、同年11月11日に脱稿した台本を山本安英の元に持ち込んで朗読を依頼した[7][注釈 4]。この際木下は山本に「あなたを考えて書いたから、読んでみてやれるところまでやって見せて下さい」と話したという[7]。この段階ではタイトルがなく、木下と山本が考える中で「”夕”という幽(かす)かな響きをもったことばがふっと出てきて」(山本)題が決まったという[7]

前記の通り、『婦人公論』1949年1月号に発表され、同年5月6日にNHK大阪放送局よりラジオドラマとして全国放送された(演出:岡倉士朗、出演:山本安英・宇野重吉清水将夫加藤嘉[1][4]。同年10月の初演以来、与ひょうは桑山正一が演じた[2][注釈 5]。以後、「ぶどうの会」で1964年まで公演が実施される(後述の解散発表に伴い、1964年10月から12月までは「ぶどうの会解散残務処理委員会」の主催)[10][11]。またこの間、1960年9月から11月にかけて山本は「第一次訪中日本新劇団」の副団長として中華人民共和国を訪問した際、北京武漢上海広州で5回(上海のみ2回)の上演をおこなっている(子役は中国の俳優を起用)[12][13][14]。「ぶどうの会」(解散残務処理委員会を含む)としての本作の上演は372回だった[15]

山本は1964年9月に「ぶどうの会」の解散を発表し、翌1965年11月に「山本安英の会」を発足させた[10][15][16]。「山本安英の会」として『夕鶴』の上演を再開したのは1966年9月だった[10]

1967年は公演がなく、1968年の公演から与ひょう役が宇野重吉となる[17]。桑山正一は「450回以上」与ひょう役を務めた[18]。1970年は再び上演がなかった[5][17]。ここまでの上演では初演から担当した岡倉士朗の演出を、1959年の岡倉の没後も踏襲してきたが、このタイミングで初めて見直しが入り、作者の木下が1971年の公演から演出も担当することになった[19]。与ひょう役も2世茂山千之丞に交代した[19][20]。茂山はそのまま「山本安英の会」での公演終了まで与ひょうを演じ続け、500回以上出演した[18]

1984年7月24日に福島市公会堂の公演で通算1000回を達成した[21][22]。1986年4月に「一千回達成記念公演」をおこない[23]、「山本安英の会」としての最後の上演となった。この間、木下順二は本作の上演を、プロの他の劇団には許可しなかった(アマチュアに対してはその限りではなかった)[24]

山本死去から4年後の1997年には、坂東玉三郎がつう、渡辺徹が与ひょうを[要出典]演じる形で公演が実施された[25]

記念碑

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片辺民話の里(夕鶴の碑)

民話の再録された佐渡市北片辺には、1987年に木下順二の筆で「『夕鶴』のふるさと」と刻まれた文学碑が建立され、同年10月に木下と山本安英が出席して除幕式がおこなわれた[6][26]。同地には隣接して、民話再録者の鈴木棠三の記念碑も建立されている[26]

派生作品

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また、1953年には能楽の様式で本作を演じる試みもなされている(つうは片山博太郎、与ひょうはのちに舞台でも演じる2世茂山千之丞だった)[27]

脚注

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注釈

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  1. ^ この場所で初演したのは、小山内薫の未亡人が天理教徒であり、山本に天理での上演を依頼したためとされる[3]
  2. ^ 上演した施設名については「天理教本部講堂[2]」「天理教館[4]」と複数の表記がある。
  3. ^ 柳田國男『全国昔話記録』の第一編『佐渡昔話集』(1932年(昭和7年))中の「鶴女房」(採話者:鈴木棠三、話者:道下ヒメ)である。相川町史編纂委員会(編)『佐渡相川郷土史事典』(相川町、2002年、[要ページ番号])に民話及び本作の概要記述がある。
  4. ^ それ以前から木下は書き上げた台本を山本のところに持参して朗読を頼んでいた[8]
  5. ^ 山本安英によると、初演直前に桑山が発熱したため、別の演目で同行していた滝沢修が代演を申し出たが、桑山は奮起して出演したという[9]

出典

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  1. ^ a b 宮岸泰治 2006, p. 97.
  2. ^ a b c 團伊玖磨4.夕鶴とフリュート」『季刊ムラマツ』(エッセイ「もがりごえ」。1983年から1993年まで連載されたものの1回)、村松楽器販売
  3. ^ 尾崎宏次『八人の演劇人』早川書房、1984年、p.152
  4. ^ a b 菅井幸雄年譜 1994, p. 166.
  5. ^ a b 山本安英 1994, p. 122.
  6. ^ a b 宮岸泰治 2006, p. 142.
  7. ^ a b c 山本安英 1992, p. 46.
  8. ^ 山本安英 1992, pp. 127–128.
  9. ^ 山本安英 1992, p. 68.
  10. ^ a b c 菅井幸雄年譜 1994, pp. 171–172.
  11. ^ 宮岸泰治 2006, pp. 12–14.
  12. ^ 山本安英 1994, p. 101.
  13. ^ 菅井幸雄年譜 1994, p. 170.
  14. ^ 宮岸泰治 2006, p. 107.
  15. ^ a b 宮岸泰治 2006, pp. 7–11.
  16. ^ 山本安英 1994, pp. 107–110.
  17. ^ a b 菅井幸雄年譜 1994, p. 173.
  18. ^ a b 山本安英 1994, pp. 125–126.
  19. ^ a b 宮岸泰治 2006, pp. 48–50.
  20. ^ 菅井幸雄年譜 1994, p. 174.
  21. ^ 宮岸泰治 2006, pp. 137–138.
  22. ^ 菅井幸雄年譜 1994, p. 178.
  23. ^ 菅井幸雄年譜 1994, p. 179.
  24. ^ 宮岸泰治 2006, p. 217.
  25. ^ “劇作家の木下順二さん死去 「夕鶴」「子午線の祀り」”. 朝日新聞. (2006年11月30日). https://www.asahi.com/culture/stage/theater/TKY200611290405.html 2023年9月9日閲覧。 
  26. ^ a b 宮岸泰治 2006, p. 151-152.
  27. ^ 山本安英 1992, p. 74.

参考文献

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関連文献

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  • 綜合版夕鶴編集委員会(編)『夕鶴 綜合版 舞台・鑑賞・資料』未來社、1953年
  • 「夕鶴の世界」編集委員会(編)『夕鶴の世界 第二次綜合版』未來社、1984年
  • 木下順二(著)山本安英の会(編)薗部澄(撮影)『夕鶴 写真で読む』童牛社、1993年

関連項目

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  • つる -鶴- - 1988年の映画(監督:市川崑)。当初は本作の映画化を企図したとされる。