外ヶ濱浪五郎 (2代)
外ヶ濱 浪五郎(そとがはま なみごろう、1819年〈文政2年〉 - 1863年9月7日〈文久3年7月25日[1]〉)は、越後国頸城郡(現在の新潟県上越市)出身で伊勢ノ海部屋に所属した力士[2]。本名は小池 兵吉と伝わっているが詳細は不明[2]。身長・体重とも不明。最高位は東前頭3枚目(文久3年(1863年)7月場所[3])。9代春日山を継いで二枚鑑札となり、最終的に春日山 鹿右エ門の四股名を名乗った。
略歴
[編集]文政2年(1819年)の生まれ[4]。出身は越後国頸城郡片町(東頸城郡浦川原村を経て現・新潟県上越市)[5][4]。
伊勢ノ海に入門し、天保14年(1843年)10月場所で竹ノ越 兵吉の四股名で初土俵を踏んだ(西序ノ口)[4]。弘化2年(1845年)2月に嶽ノ越に改名[4]。弘化4年(1847年)11月場所で幕下に昇進[6][4]、嘉永5年(1852年)2月に外ヶ濱 浪五郎に改名[7][4]。嘉永3年(1850年)11月場所で幕下7枚目に上がって以降幕下上位(現在の十両格)に長くとどまり、安政6年(1859年)1月場所でようやく新入幕を果たす[5][4]。勝率は5割に満たない水準で推移したが、闘志に溢れる容貌で土俵を沸かせた[独自研究?]。文久2年(1862年)2月場所で9代春日山を継承し春日山 鹿右エ門に改名したが[8][4]、それから1年半後の文久3年7月25日(1863年9月7日)に現役中のまま死去[4]。45歳没。戒名は春巌義雲信士[1]。
幕内通算 9場所 20勝28敗8分31休の成績を残した(うち10休は死没した文久3年7月の場所のものであり、同場所の東前頭3枚目が最高位でもある)[2]。
改名歴:竹ノ越 兵吉 → 嶽ノ越 兵吉 → 外ヶ濱 浪五郎 → 春日山 鹿右エ門
出典
[編集]参考文献
[編集]- 酒井, 忠正『日本相撲史』 上巻、大日本相撲協会、1956年6月1日。doi:10.11501/1692168。(要登録)
- 相撲史跡研究会『相撲の史跡』2号、相撲史跡研究会、1978年1月20日。doi:10.11501/12146134。(要登録)