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外交激変

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

外交激変』(がいこうげきへん)は柳井俊二の著作。

五百旗頭真伊藤元重薬師寺克行による「90年代の証言」シリーズの3巻めである(1巻めは小沢一郎、2巻目は宮沢喜一)。

柳井俊二は外務省職員で、1997-9年の外務事務次官。インタビューに答える形式で、2006年に朝日新聞社の雑誌『論座』に3回連載され、2007年に書籍化された [1]

自衛隊は武器は持つが、防衛だけのもの、自衛隊が武器を持って海外派遣など論外、というのが1980年代までの日本の考え方だった。 これを大きくゆさぶったのが1990-1991年の湾岸戦争だった。それによる外交の変化を描く。

各章の概要

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1 沖縄返還交渉

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  • 1971年6月、沖縄返還協定調印。 (返還は翌年)
  • 返還協定の第7条は、米国の意向で核について書かずに、実質「核抜き返還」を実現した。

2 湾岸危機 - 日本外交の試練

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  • 1990年8月、イラクがクウェートを占領し、湾岸危機勃発。
  • 柳井は条約局長。どんな人的貢献をすべきか、つまり後方支援に自衛隊を出すべきか、事務次官の栗山尚一と激論 [注 1]
  • 10月に自衛隊派遣の国連平和協力法案を提出。しかし全野党の反対で11月廃案 。
  • 日本は増税して戦費の2割以上の130億ドルを出したが、人的貢献がなかったため、国際的にほとんど感謝されなかった。

3 PKOへの参加

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  • 1990年11月、小沢一郎によって自民・公明・民社の3党は、PKO組織創設に合意。
  • 1992年6月にPKO協力法が、自民・公明・民社の賛成で成立。9月に自衛隊、10月に文民警察官がカンボジアへ [注 2]
  • 1993年4,5月にカンボジアで文民の中田厚仁高田晴行が殺された。世論は撤退に流れたが、宮沢総理は動じなかった。

4 機構改革 - 総合外交政策局の誕生

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5 冷戦後の危機の中で

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  • 北朝鮮は1993年にノドンを日本海へ、1998年にテポドンミサイルを太平洋へ発射。
  • 国連安保理改革が必要。1997年にラザリ議長は理事国増加案を出したが、総会へ提出する以前に流れた。

6 問題発言

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7 外交は何をすべきか

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脚注

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注釈

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  1. ^ 栗山は、アジア近隣諸国からの批判などを考慮して、自衛隊を別組織に衣更えすることを主張した(栗山 [2] p.39)。
  2. ^ 自衛隊は比較的安全なプノンペン近郊に配置された。一方「現地警察の指導」が任務で、武器所持禁止の文民警官は、国連文民警察隊本部長のクラース・ルース(Klaas Roos)の指揮下で、ポル・ポト派との接触危険がある奥地に配置された [3]
  3. ^ 日本政府は4億円余を拠出。しかしこの活動は韓国国内では評価されず、2007年に解散。2015年の慰安婦問題日韓合意によりあらためて2016年に和解・癒し財団を設立したが、2019年解散。
  4. ^ 外務省は、普天間を会談の議題に出すことに反対だった(橋本 [4] p.65; 折田 [5] p.194)。
  5. ^ すると今度は台湾を含むのかと、中国を刺激したため、高野は更迭された。しかし当時の条約局長竹内行夫は、この答弁で世論が落ち着いたと評価する(竹内 [6] p.239)。

出典

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  1. ^ 柳井俊二 『外交激変』朝日新聞社 2007
  2. ^ 栗山尚一『日米同盟 漂流からの脱却』日本経済新聞社 1997
  3. ^ 旗手啓介『告白 あるPKO隊員の死・23年目の真実』講談社 2018
  4. ^ 橋本龍太郎『外交回顧録』岩波書店 2013
  5. ^ 折田正樹『外交証言録 湾岸戦争・普天間問題・イラク戦争』岩波書店 2013
  6. ^ 竹内行夫『外交証言録 高度成長期からポスト冷戦期の外交・安全保証』岩波書店 2022

外部リンク

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