外交激変
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『外交激変』(がいこうげきへん)は柳井俊二の著作。
五百旗頭真、伊藤元重、薬師寺克行による「90年代の証言」シリーズの3巻めである(1巻めは小沢一郎、2巻目は宮沢喜一)。
柳井俊二は外務省職員で、1997-9年の外務事務次官。インタビューに答える形式で、2006年に朝日新聞社の雑誌『論座』に3回連載され、2007年に書籍化された [1]。
自衛隊は武器は持つが、防衛だけのもの、自衛隊が武器を持って海外派遣など論外、というのが1980年代までの日本の考え方だった。 これを大きくゆさぶったのが1990-1991年の湾岸戦争だった。それによる外交の変化を描く。
各章の概要
[編集]1 沖縄返還交渉
[編集]- 1971年6月、沖縄返還協定調印。 (返還は翌年)
- 返還協定の第7条は、米国の意向で核について書かずに、実質「核抜き返還」を実現した。
2 湾岸危機 - 日本外交の試練
[編集]- 1990年8月、イラクがクウェートを占領し、湾岸危機勃発。
- 柳井は条約局長。どんな人的貢献をすべきか、つまり後方支援に自衛隊を出すべきか、事務次官の栗山尚一と激論 [注 1]。
- 10月に自衛隊派遣の国連平和協力法案を提出。しかし全野党の反対で11月廃案 。
- 日本は増税して戦費の2割以上の130億ドルを出したが、人的貢献がなかったため、国際的にほとんど感謝されなかった。
3 PKOへの参加
[編集]- 1990年11月、小沢一郎によって自民・公明・民社の3党は、PKO組織創設に合意。
- 1992年6月にPKO協力法が、自民・公明・民社の賛成で成立。9月に自衛隊、10月に文民警察官がカンボジアへ [注 2]。
- 1993年4,5月にカンボジアで文民の中田厚仁・高田晴行が殺された。世論は撤退に流れたが、宮沢総理は動じなかった。
4 機構改革 - 総合外交政策局の誕生
[編集]- 戦後50年の村山談話の原案は、新設した総合外交政策局で考えた。仕上げは首相官邸。
- 従軍慰安婦問題。日本は1965年の日韓請求権協定で解決したという立場。さらに1995年に民間基金としてアジア女性基金を設立した [注 3]。
5 冷戦後の危機の中で
[編集]- 北朝鮮は1993年にノドンを日本海へ、1998年にテポドンミサイルを太平洋へ発射。
- 国連安保理改革が必要。1997年にラザリ議長は理事国増加案を出したが、総会へ提出する以前に流れた。
6 問題発言
[編集]- 普天間飛行場返還は、官邸が主導し、1996年の橋本・クリントン会談から検討を開始 [注 4]。
- 対ロ交渉は、1991年の海部・ゴルバチョフ会談で再開した。しかし、1993年の細川・エリツィン会談、1998年の橋本・エリツィン会談以後、進展していない。
7 外交は何をすべきか
[編集]- 1997年新日米防衛協力のための指針を交渉、閣議決定。 1999年に周辺事態安全確保法を制定。
- 「周辺」とはどこか。政府は「地理的定義ではない」と答え、際限のない拡大か?と世論は紛糾。
- 高野紀元北米局長は、周辺とは「極東ないし極東周辺を概念的に超えることはない」と答弁し収拾 [注 5]。
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 栗山は、アジア近隣諸国からの批判などを考慮して、自衛隊を別組織に衣更えすることを主張した(栗山 [2] p.39)。
- ^ 自衛隊は比較的安全なプノンペン近郊に配置された。一方「現地警察の指導」が任務で、武器所持禁止の文民警官は、国連文民警察隊本部長のクラース・ルース(Klaas Roos)の指揮下で、ポル・ポト派との接触危険がある奥地に配置された [3]。
- ^ 日本政府は4億円余を拠出。しかしこの活動は韓国国内では評価されず、2007年に解散。2015年の慰安婦問題日韓合意によりあらためて2016年に和解・癒し財団を設立したが、2019年解散。
- ^ 外務省は、普天間を会談の議題に出すことに反対だった(橋本 [4] p.65; 折田 [5] p.194)。
- ^ すると今度は台湾を含むのかと、中国を刺激したため、高野は更迭された。しかし当時の条約局長竹内行夫は、この答弁で世論が落ち着いたと評価する(竹内 [6] p.239)。