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外山光庸

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

外山 光庸(とやま みつつね、1874年明治7年〉8月1日[1] - 1919年大正8年〉4月5日[1][2])は、明治から大正期の政治家華族貴族院子爵議員。旧姓・豊岡、旧名・庸雄(いさを)[1][3][4]

経歴

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京都で殿掌・豊岡健資の三男として生まれ[3]1885年(明治18年)9月に外山光曁の養子となり、養父の死去に伴い同年11月4日[5][注 1]子爵を襲爵した[1][4][6]。その後、光庸と改名[4]

学習院高等科を修了[2][4]。都会の生活を避け伊豆大島で生活していた[4]1918年(大正7年)7月10月、貴族院子爵議員に選出され[7][8]翌年死去するまで在任した[2]従三位[9]

家族・親族

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  • 母 家女房(川嵜重徳女)[3]
  • 養子 外山英資(1907年11月生、実弟・豊岡圭資の二男)[1]外山家と子爵位を継いだ。妻は田中長一郎の二女・なほ子(1915年1月生)。
  • 庶子 道子(1916年11月生)光庸と下村マツとの間に生まれ、学習院女子部を出たのち京都の呉服商・八木清一(1905年5月生)[注 2]に嫁いだ。

脚注

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注釈

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  1. ^ 『平成新修旧華族家系大成 下巻』202頁では11月5日。
  2. ^ 妻・千代の兄である安田耕之助と共に円山公園音楽堂を寄付した呉服商「水清」八木清八の長男。米国シンシナティ大学卒[10]

出典

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  1. ^ a b c d e 『平成新修旧華族家系大成 下巻』202頁。
  2. ^ a b c 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』48頁。
  3. ^ a b c 『豊岡家譜』
  4. ^ a b c d e 『華族畫報 下』1056頁。
  5. ^ 官報』第706号、明治18年11月6日。
  6. ^ 『人事興信録 第5版』と9頁。
  7. ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、26頁。
  8. ^ 『官報』第1788号、大正7年7月18日。
  9. ^ 衆議院,参議院 編『議会制度七十年史 第1』 46頁、1960年。
  10. ^ 人事 1940, p. ヤ4.

参考文献

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  • 『豊岡家譜』1875年。東京大学史料編纂所所蔵。
  • 人事興信所編『人事興信録 第5版』人事興信所、1918年。
  • 人事興信所 編『人事興信録 第12版下』人事興信所、1940年。doi:10.11501/3430446 
  • 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、貴族院事務局、1947年。
  • 衆議院参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
  • 霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成 下巻』霞会館、1996年。
  • 杉謙二編『華族畫報 下』吉川弘文館、2011年(華族画報社大正2年刊の複製)。
日本の爵位
先代
外山光曁
子爵
外山家第2代
1885年 - 1919年
次代
外山英資