多治見シネマ
多治見シネマ Tajimi Cinema | |
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情報 | |
正式名称 | 多治見シネマ |
旧名称 | 多治見館、多治見大映 |
開館 | 1925年1月5日 |
閉館 | 2004年1月31日 |
最終公演 | 『ラスト サムライ』 |
客席数 |
2スクリーン計230席 (120席・110席) |
用途 | 映画上映 |
運営 | 大五興行株式会社 |
所在地 |
〒507-0835 岐阜県多治見市錦町3丁目6 |
位置 | 北緯35度19分49秒 東経137度07分41秒 / 北緯35.33014度 東経137.12819度座標: 北緯35度19分49秒 東経137度07分41秒 / 北緯35.33014度 東経137.12819度 |
最寄バス停 | 東鉄バス「広小路」停留所 |
多治見シネマ(たじみシネマ)は、かつて岐阜県多治見市錦町3丁目にあった映画館。
概要
[編集]1925年(大正14年)1月5日に多治見館(たじみかん)として開館し、高度経済成長期には大映作品を上映する多治見大映(たじみだいえい)に改称した。1990年(平成2年)4月にはコロナグループ傘下に入って多治見シネマに改称し、2004年(平成16年)1月31日をもって閉館した。多治見シネマが閉館したことで岐阜県東濃地区から映画館が長らく無くなっていたが[1]、2025年春に土岐市のイオンモール土岐内に「イオンシネマ土岐」が開業する事が決まり、約21年ぶりに東濃地域に映画館が復活する事になった[注 1]。
歴史
[編集]年表
[編集]- 1925年(大正14年)1月5日 - 多治見館(キネマ多治見館)として開館。
- 1960年代後半 - 多治見大映に改称。
- 1990年(平成2年)4月 - 多治見シネマに改称。
- 2004年(平成16年)1月31日 - 閉館。
多治見館
[編集]1893年(明治26年)には岐阜県土岐郡多治見町錦町3丁目の新羅神社の北側に西ヶ原遊郭が移転し、この地域は遊郭を中心ににぎわいを見せた。1925年(大正14年)1月5日、多治見町初の常設映画館として新羅神社の南側に多治見館(キネマ多治見館)が開館した[4]。同年3月には愛知県名古屋市などでも人気があった『母九巻・大毎ニュース・バクダットの盗賊』などが上映されている[4]。8月に日活の『大地は微笑む』が上映された際には、女優の飯田蝶子や栗島すみ子(いずれも『大地は微笑む』の出演者ではない)が舞台上で挨拶を行い、超満員の観客から喝采を浴びた[4]。
1931年(昭和6年)11月には田中絹代主演の『マダムと女房』が上映されたが[5]、この作品は日本初の本格的なトーキー映画である。多治見館は愛知県瀬戸市の映画館と連携して経営されたため、(フィルムの輸送が間に合わずに)定刻から一時間も上映開始が遅れることもあった[4]。
太平洋戦争の戦時色が濃くなった1944年(昭和19年)には豊岡劇場とともに多治見館も閉館しており、多治見で営業を続ける映画館は榎元座のみとなった[5]。戦後の1947年(昭和22年)にはハンフリー・ボガート主演の『カサブランカ』(1942年・アメリカ)、マルク・アレグレ監督作『乙女の湖』(1934年・フランス)、ヴィクトル・ユーゴー原作の『ノートルダムの傴僂男』(1939年・アメリカ)、セシル・B・デミル監督作『大平原』(1939年・アメリカ)などの洋画が相次いで上映された[6]。同年の邦画では、『路傍の石』(1938年・日活)、成瀬巳喜男作『鶴八鶴次郎』(1938年・東宝)、長谷川一夫主演の『藤十郎の恋』(1938年・東宝)などが上映された[6]。
1960年の多治見市の映画館(4館)[7] |
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多治見館(白銀町) |
榎元座(新町) |
多治見文化劇場(本町) |
多治見東映劇場(栄町) |
昭和20年代末には黒澤明監督作『七人の侍』(東宝)、美空ひばりと市川雷蔵が共演した『歌ごよみ お夏清十郎』(新東宝)、ウィリアム・ワイラー監督作『ローマの休日』、ヴィクター・フレミング監督作『風と共に去りぬ』などが上映され[6]、『七人の侍』などはとても人気があった[8]。多治見市立池田小学校はクラス全員で小学校から多治見館まで歩いてから映画を観る鑑賞会を行っていた[9]。
映画黄金期の多治見には4館の映画館があり[注 2]、多治見館のほかは1882年(明治15年)に芝居小屋として開館した榎元座(松竹・東映)、1947年(昭和22年)に豊岡劇場から改称した多治見文化劇場(映画と実演)、1956年(昭和31年)1月26日に開館した多治見東映(東映)だった。映画黄金期の昭和30年代には東濃地区だけで約20館の映画館が存在した[10]。
多治見大映
[編集]1980年の多治見市の映画館(2館)[11] |
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多治見大映劇場(錦町3-6) |
多治見東映劇場(栄町1-37) |
1966年(昭和41年)以後には多治見館が多治見大映に改称し、流行の喜劇シリーズなど大映作品を上映した[12]。1963年(昭和38年)11月には多治見文化劇場が日活の直営館となって多治見日活劇場に改称したが[13]、1970年(昭和45年)2月28日をもって閉館した[14]。同年4月には榎元座も閉館し[9]、多治見市の映画館は多治見大映と多治見東映の2館となった[15]。1970年代には山口百恵主演の青春映画などがヒットした[12]。
1980年(昭和55年)の多治見市にあった映画館は多治見大映と多治見東映の2館だった[注 3]が、『多治見市史 通史編 下』が刊行された1987年(昭和62年)時点では、東濃地区全体を見渡しても映画館は多治見大映と多治見東映から改称した多治見グランド(2スクリーン)のみで、7年前よりも1スクリーン増えている[15]。多治見大映は高山市の高山京極大映なども手掛ける大五興行株式会社が運営していたが、1980年代後半からはレンタルビデオの普及などが理由で経営が悪化した[12]。
多治見シネマ
[編集]2000年の多治見市の映画館(4館)[注 4] |
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多治見シネマ(錦町3-6) |
多治見シネマ2(錦町3-6) |
多治見グランド1(栄町1-37) |
多治見グランド2(栄町1-37) |
1990年(平成2年)4月には愛知県小牧市に本社を置いてアミューズメント施設を運営するコロナグループ傘下に入った[17][12]。コロナグループは効率化のために館内を2館に分け、多治見大映から多治見シネマ1・2に改称した。さらにカラオケコーナーを併設するなどして経営改善を図った[12]。1998年(平成10年)1月には『タイタニック』が大ヒットし、月間観客数は約15,000人だった[17]。2000年(平成12年)1月31日に多治見グランドが運営会社社長の死去を機に完全閉館[注 5]すると、多治見シネマは同市に残る唯一の映画館となった。
しかし駐車場が狭いという問題は克服できず、また同一施設内に多数のスクリーンを持つシネマコンプレックスが台頭したことで、2003年(平成15年)10月の月間観客数は約2,200人にまで落ち込んだ[17]。同秋に閉館が決定し[17]、2004年(平成16年)1月31日をもって閉館した[12][10]。最終日の上映作品は『ファインディング・ニモ』、『マトリックス レボリューションズ』、『ラスト サムライ』だった[12]。
多治見シネマが閉館したことで、中津川市や恵那市なども含む東濃地区から映画館が無い状態が20年以上に渡って続いており[19]、多治見市からもっとも近い映画館は(県外の)愛知県小牧市にある小牧シネマワールド(現在の小牧コロナシネマワールド)であった。そのため、2004年(平成16年)4月6日からは岐阜新聞東濃版に小牧シネマワールドの上映時間情報が掲載されるようになった[19]。多治見シネマは1925年(大正14年)の開館から2004年(平成16年)の閉館まで同一の建物を使用していたが、この建物は2007年(平成19年)から2008年(平成20年)頃に取り壊され、跡地は駐車場として利用されている。
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ イオンモール土岐では開業当初から映画館を設置する計画があった[2]が、2022年(令和4年)の開業時点では設置されていなかった[1][3]。
- ^ 1960年の映画館(東海地方)「消えた映画館の記憶」も参照した[7]。
- ^ 1980年の映画館(東海地方)「消えた映画館の記憶」も参照した[11]。
- ^ 2000年の映画館(東海地方)「消えた映画館の記憶」も参照した[16]。
- ^ 岐阜県の映画館「消えた映画館の記憶」も参照した[18]。
出典
[編集]- ^ a b “映画館ない東濃 イオンにシネコン熱望”. 中日新聞Web (chunichi.co.jp). 中日新聞社 (2022年12月10日). 2022年12月13日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年12月13日閲覧。
- ^ “土岐市、イオンと協定 モール19年度開業へ土地利用締結”. 岐阜新聞Web (gifu-np.co.jp). 株式会社岐阜新聞社 (2015年2月19日). 2015年2月22日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年10月30日閲覧。
- ^ 2022年8月26日中日新聞朝刊 朝刊地域経済9頁「イオンモール土岐10月7日開業 140の専門店や温浴施設」
- ^ a b c d 『多治見市史 通史編 下』p.555
- ^ a b 『多治見市史 通史編 下』p.563
- ^ a b c 『多治見市史 通史編 下』p.565
- ^ a b 『映画年鑑 戦後編 別冊 全国映画館録 1960』日本図書センター、1999年。
- ^ 吉岡勲・丹羽秀夫(監修)『写真集 思い出のアルバム 多治見』郷土出版社、1984年、135頁。
- ^ a b 思い出から聞く多治見の映画館 (PDF) バロー文化ホール情報誌「多文ねっと」、2018年4月・5月号
- ^ a b 「東濃地方最後の銀幕閉じる 『多治見シネマ』休館」『朝日新聞』2004年2月3日
- ^ a b 日本映画製作者連盟配給部会『映画館名簿 1980年』時事映画通信社、1979年。
- ^ a b c d e f g 「東濃地方唯一の映画館 『多治見シネマ』今月限り ビデオ、DVDに客奪われ閉館へ 最後の出し物『ラストサムライ』など」『中日新聞』、2004年1月29日
- ^ 「文化劇場よ、さようなら 半世紀にわたる任務終え」『東濃新報』1970年5月25日
- ^ 「時代の変化見るよう 多治見税務署管内11館が7館に 映画館の廃館続く」『東濃新報』1970年5月25日
- ^ a b 『多治見市史 通史編 下』p.566
- ^ 日本映画製作者連盟配給部会『映画館名簿 2000年』時事映画通信社、1999年。
- ^ a b c d 「多治見シネマ休館へ 東濃最後の“映画の灯”消える 再開めどなく市民『残念』」『岐阜新聞』、2003年12月26日
- ^ 「思い出の映画館がまた一つ消える 東濃の映画バカ多治見グランド篠田さん死去 残るは五市に一館だけ」『東濃新報』東濃新報社、2000年1月28日、1面。2021年8月29日閲覧。
- ^ a b 「6日から映画上映時間掲載 小牧シネマワールド」『岐阜新聞』、2004年4月4日