多治貞岑
時代 | 平安時代初期 - 前期 |
---|---|
生誕 | 延暦18年(799年) |
死没 | 貞観16年11月9日(874年12月21日) |
別名 | 貞峯 |
官位 | 従四位下・右中弁 |
主君 | 淳和天皇→仁明天皇→文徳天皇→清和天皇 |
氏族 | 多治比真人→丹墀真人→多治真人 |
父母 | 父:丹墀貞成? |
多治 貞岑(たじひ の さだみね)は、平安時代初期から前期にかけての貴族。名は貞峯とも記す。氏姓は多治比真人のち丹墀真人、多治真人。中納言・多治比広成の曽孫[1]。木工頭・丹墀貞成の子[2]。官位は従四位下・右中弁。
経歴
[編集]右京の出身。若い頃から大学寮にて学ぶが、文才があり、奉試に及第して文章生となる[3]。天長9年(832年)多治比貞成の奏請により、一族と共に多治比から丹墀に改姓する[4]。翌天長10年(833年)兵部少丞に任ぜられ、兵部大丞を経て、承和5年(838年)従五位下・加賀介に叙任される。
のち播磨介と仁明朝前半は地方官を務めるが、承和9年(842年)刑部少輔、承和14年(847年)民部少輔に任ぜられるなど、仁明朝後半は一転して京官を務めた。
嘉祥3年(850年)文徳天皇の即位後に駿河守として再び地方官に転じるが、国政は清く明らかで官吏や民の評判が良かったという[3]。国司の任期を終えた後、斉衡3年(856年)大学頭、天安元年(857年)民部少輔と文徳朝でも後半は京官を歴任した。
天安2年(858年)従五位上・左少弁に叙任されると、清和朝の前半は弁官を務め、貞観5年(863年)右中弁、貞観8年(866年)正五位下、貞観10年(868年)従四位下と累進した。同年伊勢守に転じるが遙任であったという[3]。この間の貞観8年(866年)姓の名が一族の祖先である多治比古王に由来するにもかかわらず、以前丹墀姓に改姓したことから、元の多治比に戻した上で、煩雑さを避けるために「比」の時を省略して多治姓への改姓を上表し許されている[4]。
晩年は閑居し、酒浸りで酩酊の日々を送り、家事を顧みることなく、常に友人を招いては酒を酌み交わしていたという[3]。貞観16年(874年)11月9日卒去。享年76。最終官位は散位従四位下。
官歴
[編集]『六国史』による。
- 時期不詳:文章生
- 天長9年(832年) 日付不詳:多治比真人姓から丹墀真人姓に改姓
- 天長10年(833年) 日付不詳:兵部少丞
- 承和元年(834年) 日付不詳:兵部大丞
- 時期不詳:正六位上
- 承和5年(838年) 正月7日:従五位下。正月13日:加賀介
- 時期不詳:播磨介
- 承和9年(842年) 12月10日:刑部少輔
- 承和14年(847年) 2月11日:民部少輔
- 嘉祥3年(850年) 5月17日:駿河守
- 斉衡3年(856年) 8月28日:大学頭
- 天安元年(857年) 日付不詳:刑部少輔
- 天安2年(858年) 正月23日:民部少輔。3月19日:左少弁。8月27日:装束司(文徳天皇崩御)。11月7日:従五位上
- 貞観5年(863年) 2月16日:右中弁
- 貞観8年(866年) 正月7日:正五位下。2月21日:丹墀真人姓から多治真人姓に改姓
- 貞観10年(868年) 正月7日:従四位下。正月16日:伊勢守(遙任)
- 貞観16年(874年) 11月9日:卒去(散位従四位下)