多田鼎
ただ かなえ 多田 鼎 | |
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生誕 |
1875年10月3日[1] 日本・愛知県宝飯郡五井村(現在の蒲郡市)[2][1] |
死没 | 1937年12月7日(62歳没)[2][1] |
国籍 | 日本 |
別名 | 慶悟(法名)[2][3] |
職業 | 学僧[2]宗教家[3] |
多田 鼎(ただ かなえ、1875年(明治8年)10月3日 - 1937年(昭和12年)12月7日)は、日本の学僧[2]、宗教家[3]。愛知県出身[2][1]。大谷派伝道講究院初代院長を務めた[4][2]。
来歴
[編集]愛知県宝飯郡五井村(現在の蒲郡市)の常円寺で生まれる[2][1]。
1896年(明治29年)に真宗大学へ進学、白川党(清沢満之らによる宗派変革活動)に加わったため、退校処分となる。(次年には復校が許可される)[1]
1900年(明治33年)、清沢満之の仮宅浩々洞において暁烏敏、佐々木月樵などと「精神主義」に身を投じる[1][5][2]。
また、浩々洞の機関誌『精神界[6][2]』の刊行を1901年(明治34年)に始める[1]。
1902年(明治35年)真宗大学の嘱託教授に就任する。(同年11月、真宗大学の学生による「関根仁応排斥運動」の責任を取るために当時の真宗大学学長清沢満之と連れ立って辞任)[1][4]
1914年(大正3年)には「動転」により、清沢とは立場を異にすることになる(詳細後述)。
1923年(大正12年)には雑誌『みどりご』を刊行し、1924年(大正13年)には大谷派伝道講究院初代院長となる[4][2]。
宗教的「動転」
[編集]1914年(大正3年)、多田鼎は雑誌『精神界』(第14巻第9号 大正3年9月号)に「私は是の如く動転せり」を、同じく『精神界』(第14巻第11号 大正3年11月号)に「願はくば我が昨非を語らしめよ」を掲載し[7][8][9]、自身の宗教的思考が「動転」したことを公表した[10][11][12][4]。以後「精神主義」から旧来的な信仰に変わり[11][10]、清沢満之の思想とは異なるものとなる[10]。
著書
[編集]脚注
[編集]- ^ a b c d e f g h i 村上専龍「多田先生の年譜」多田鼎『みどりご 法語集』百華苑、1969年、pp.566 - 569(リンク先は国立国会図書館デジタルコレクション)
- ^ a b c d e f g h i j k 「多田鼎」『20世紀日本人名事典』日外アソシエーツ 。コトバンクより2024年11月14日閲覧。
- ^ a b c 「宗教家 多田鼎」久米康裕『三河知名人士録』尾三郷土史料調査会、1939年、p.584(リンク先は国立国会図書館デジタルコレクション)
- ^ a b c d 「多田鼎師略歴」多田鼎『祖聖の国』百華苑、1962年、奥付(リンク先は国立国会図書館デジタルコレクション)
- ^ 宮崎顗「浩々洞」『清沢満之の研究』教化研究所、1957年、pp.343 - 345(リンクは国立国会図書館デジタルコレクション)
- ^ 精神界発行所(編)『精神界』第2巻第3号、精神界発行所、1902年3月10日(リンク先は国立国会図書館デジタルコレクション)
- ^ 多田鼎『多田鼎集』第3巻 同朋舎、1942年、凡例 P.3(リンク先は国立国会図書館デジタルコレクション)
- ^ 多田鼎「私は是の如く動転せり」『多田鼎集』第3巻 同朋舎、1942年、pp.241 - 273(リンク先は国立国会図書館デジタルコレクション)
- ^ 多田鼎「願はくば我が昨非を語らしめよ」『多田鼎集』第3巻 同朋舎、1942年、pp.274 - 310(リンク先は国立国会図書館デジタルコレクション)
- ^ a b c 春近敬「多田鼎の信仰変容に関する一考察」『現代と親鸞』第16巻、真宗大谷派親鸞仏教センター、2008年、26-28頁。
- ^ a b 寺山俊昭『本願寺教団 :親鸞は現代によみがえるか』学芸書林、1971年、p.193(リンク先は国立国会図書館デジタルコレクション)
- ^ 松原祐善「金子大榮先生の若き日を偲びて」『大谷学報』第57巻第1号、大谷学会、1977年6月、69頁。
- ^ 多田鼎(著)「正信偈講話」浩々洞出版部、1907年(リンク先は国立国会図書館デジタルコレクション)
- ^ 多田鼎(著)「正信偈本義」多田謹爾(編)『多田鼎集』第1巻 同朋舎、1940年、pp.2 - 256(リンク先は国立国会図書館デジタルコレクション)
- ^ 多田鼎『歎異鈔講話』無我山房、1910年(リンク先は国立国会図書館デジタルコレクション)
関連項目
[編集]英語版ウィキソース:多田鼎の項目(多田鼎の著作の英語訳)