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大中臣智治麻呂

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
大中臣智治麻呂
時代 平安時代初期
生誕 不明
死没 不明
官位 従五位上備中守
主君 平城天皇嵯峨天皇
氏族 大中臣氏
父母 父:大中臣諸魚、母:大和姫子
兄弟 智治麻呂、伯麻呂、百子
良舟、良檝、正棟、貞棟、道棟、
卜部平麻呂?
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大中臣 智治麻呂(おおなかとみ の ちじまろ)は、平安時代初期の貴族参議大中臣諸魚の子。官位従五位上備中守

経歴

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平城朝にて神祇大副を務める一方、大同3年(808年)には従五位上に叙せられて、右少弁を兼ねている。

大同5年(810年)に発生した薬子の変の直後に武蔵介として地方官に転じるが、弘仁2年(811年治部大輔として京官に復す。弘仁4年(813年)正月に再び地方官として備中守に任ぜられ、同年11月には移配させた夷俘に対する教化や、夷俘からの要請に対応するための専当官を兼ねている[1]

官歴

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日本後紀』による。

系譜

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注記のないものは「中臣氏系図」(『群書類従』巻第62所収)による。

  • 父:大中臣諸魚
  • 母:大和姫子 - 典侍
  • 生母不明の子女
    • 男子:大中臣良舟
    • 男子:大中臣良檝
    • 男子:大中臣正棟(壱演)(803-867)
    • 男子:大中臣貞棟
    • 男子:大中臣道棟
    • 男子:卜部平麻呂[2] - 後世の仮冒とされる[3]

脚注

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  1. ^ 『日本後紀』弘仁4年11月21日条
  2. ^ 尊卑分脈』『諸家知譜拙記』
  3. ^ 太田[1963: 759]

参考文献

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