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大久保忠元

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
大久保 忠元
時代 江戸時代
生誕 享保20年(1735年
死没 文化15年1月29日1818年3月5日[1]
別名 金次郎、玄蕃、宗眠(号)[2]
官位 従五位下・玄蕃頭、大和守
氏族 大久保氏
父母 父:大久保忠郷、母:某氏[2]
兄弟 忠元、安部信録、忠亮、女子、女子、女子(佐野徳行妻)、女子(内藤正敏妻→長谷川正鳳妻)[2]
相馬尊胤の養女相馬福胤の娘)[2][3]
女子(小堀政共妻→京極高融妻)、忠陽、勝田元休、高木貞雄、乙次郎
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大久保忠元(おおくぼ ただもと)は、大久保玄蕃知行所の6代目領主、上級旗本寛延2年(1749年)12月22日、15歳で家督を継ぎ6000石を知行[2]した人物である。文化15年(1818年)1月29日没[1]通称は玄蕃。

生涯

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  • 寛延2年(1749年)
    • 12月22日 15歳で家督を継ぐ[2]
  • 宝暦13年(1763年)
  • 明和元年(1764年)駿府加番を勤める[4]
  • 明和5年(1768年)
    • 12月10日 [[[中奥小姓|中奥の小姓]]になる[2]
  • 明和8年(1771年)
    • 5月16日 従五位下・玄蕃頭に叙任[2]
  • 安永5年(1776年)
    • 4月 日光山詣に従いてたてまつる[2]
  • 天明元年(1781年)
  • 天明2年(1782年)
    • 1月3日 陪膳の儀を失し、出仕をとどめられる[2]が1月12日に許される[2]
    • 11月15日 戸田忠寛大坂城代になり、仰せつけを伝えるため大坂に赴く[2]
  • 天明3年(1783年)
  • 天明7年(1787年)
    • 2月23日 忠元らはその職に適していないと言われ、不束の至りで職を奪われ、出仕をとどめられるが4月29日に許される[2]
  • 寛政3年(1791年)
    • 4月26日 家督を忠陽に譲って隠居[2]
  • 文化15年(1818年)
    • 1月29日亡くなる[1]

玄蕃頭叙任祝

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明和8年(1771年)5月、大久保忠元が従五位・下玄蕃頭に叙任するにあたり、西領7か村(方ノ上村、坂本村、中里村、中村、馬場村、花沢村、小浜村)惣代の熊八が祝うために江戸に行った。その際、大久保家の家臣にお茶など様々な贈り物を送っている[5]。西領7村で負担するための贈り物の合計金額は3両7分73文であった[6]

脚注

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注釈

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出典

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  1. ^ a b c 『新川事件の真相 駿州庵原郡瀬名村』(2010年、55頁)
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q 『新訂 寛政重修諸家譜 第十一』(1965年、401頁)
  3. ^ 寛政重修諸家譜 第3輯』(国民図書、1923年)p.765
  4. ^ 焼津市立図書館『焼津市近世資料集』(1987年、115頁)
  5. ^ 焼津市立図書館『焼津市近世資料集』(1987年、P116)
  6. ^ 焼津市立図書館『焼津市近世資料集』(1987年、P109)

参考文献

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  • 『新訂 寛政重修諸家譜 第十一』(1965年)
  • 静岡古文書研究会『新川事件の真相 駿州庵原郡瀬名村』(2010年)
  • 焼津市立図書館『焼津市近世資料集』(1987年)