大久保教孝
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時代 | 江戸時代後期 |
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生誕 | 天明7年3月24日(1787年5月11日) |
死没 | 安政7年1月24日(1860年2月15日) |
改名 | 岩丸・帯刀(幼名)、教孝 |
墓所 | 東京都世田谷区太子堂の教学院 |
官位 | 従五位下、出雲守 |
幕府 | 江戸幕府大番頭→大坂定番→奏者番 |
藩 | 相模国荻野山中藩主 |
氏族 | 大久保氏 |
父母 | 父:大久保教翅 |
妻 | 正室:大久保忠顕の娘 |
子 | 教業、教義、娘(小笠原信名正室) |
大久保 教孝(おおくぼ のりたか)は、相模荻野山中藩の第2代藩主。荻野山中藩大久保家6代。
略歴
[編集]天明7年(1787年)、初代藩主・教翅の長男として生まれる。寛政8年(1796年)に父が死去したため、家督を継ぐ。文化7年(1810年)7月1日に大番頭に任じられ、文政4年(1821年)12月12日には大坂定番、天保7年(1836年)11月20日には奏者番に任じられるなど、要職を歴任した。このため、出費増大で藩財政が悪化し、弘化2年(1845年)2月には「養蚕要略」を公布して養蚕業の奨励・発展に努め、さらに年貢増徴、倹約、上米などを行なったが、効果は望めなかった。
弘化2年(1845年)12月7日、病気を理由に家督を三男・教義に譲って隠居した。安政7年(1860年)1月24日に死去した。享年74。
系譜
[編集]父母
- 大久保教翅(父)
正室
- 大久保忠顕の娘
子女