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大久保重五郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

大久保重五郎(おおくぼじゅうごろう)は日本園芸家である。白桃や大久保桃の作出で知られる[1]

経歴

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大久保重五郎翁顕彰碑
大久保重五郎翁顕彰碑(瀬戸町塩納)

1867年慶応3年)、赤磐郡可真村弥上字山の池(現在の岡山市東区瀬戸町塩納)に生まれる。1880年明治13年)に小山益太の門下生となり、1886年(明治19年)より山の池にて桃の品種改良につとめる[1][2][3]1899年(明治32年)に恩師小山益太よりもらい受けた上海桃より白桃を発見、1901年(明治34年)結実する[4]。なお、この発見年に関しては1890年(明治23年)とする資料も存在する[1]

1902年(明治35年)ごろにはナシ赤星病対策のため日本で初めての薬剤噴霧器を考案し、それまでは薬液を浸した雑巾で拭っていた薬剤散布の効率を向上させた。また、1914年大正3年)ごろに摘果鋏、剪定鋏の新案なども行っている[5][6][7]

1914年(大正3年)には大原奨農会(現在の岡山大学資源植物化学研究所)へ就任。1924年(大正13年)に退職し、帰郷する[8]。白桃の核の離れの悪さを改善すべく御津郡横井村の石谷来吉によって作出された離核水蜜桃との交配を行い1907年(明治40年)に大久保桃を発見し、1927年昭和2年)に発表した。当初は白水桃と名付けられていたが、農業試験場の石川技師によって大久保桃と命名され、県下一円に普及した[9][10][11]

1945年(昭和20年)1月15日没。大久保の開発した桃は没後も栽培され続けており、1960年代には全国で最も多くの作付面積を持つ品種であった[12]。生誕地である瀬戸町塩納山の池地区には地元有志の手によって石碑が建てられている[13]

脚注

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  1. ^ a b c 国立国会図書館デジタルコレクション”. dl.ndl.go.jp. 2024年10月12日閲覧。
  2. ^ 岡山桃栽培 創始者のものがたり”. www.city.okayama.jp. 岡山市. 2024年10月12日閲覧。
  3. ^ 国立国会図書館デジタルコレクション”. dl.ndl.go.jp. 2024年10月12日閲覧。
  4. ^ 国立国会図書館デジタルコレクション”. dl.ndl.go.jp. 2024年10月12日閲覧。
  5. ^ 国立国会図書館デジタルコレクション”. dl.ndl.go.jp. 2024年10月12日閲覧。
  6. ^ 国立国会図書館デジタルコレクション”. dl.ndl.go.jp. 2024年10月12日閲覧。
  7. ^ 国立国会図書館デジタルコレクション”. dl.ndl.go.jp. 2024年10月12日閲覧。
  8. ^ 国立国会図書館デジタルコレクション”. dl.ndl.go.jp. 2024年10月12日閲覧。
  9. ^ 国立国会図書館デジタルコレクション”. dl.ndl.go.jp. 2024年10月12日閲覧。
  10. ^ 国立国会図書館デジタルコレクション”. dl.ndl.go.jp. 2024年10月12日閲覧。
  11. ^ 国立国会図書館デジタルコレクション”. dl.ndl.go.jp. 2024年10月12日閲覧。
  12. ^ 国立国会図書館デジタルコレクション”. dl.ndl.go.jp. 2024年10月12日閲覧。
  13. ^ 大久保重五郎爺顕彰碑”. 岡山市. 2024年10月12日閲覧。