大井際断
大井 際断(おおい さいだん、1915年(大正4年)2月26日 - 2018年(平成30年)2月27日)は昭和・平成時代の日本の禅僧。
人物
[編集]兵庫県西宮市出身。室号は大隠窟、道号は際断。法諱は令碩、俗姓は大井。1990年(平成2年)に臨済宗方広寺派管長ならびに方広僧堂師家に就任、1990年より2018年まで務めた[1]。2018年(平成30年2月27日)遷化。世寿104。
生涯
[編集]1915年(大正4年)、兵庫県西宮市に生まれる。6歳のとき、西宮市の臨済宗東福寺派茂松寺和尚、かつ実父の大井洞雲について得度した。
1940年(昭和15年)[2]京都帝国大学文学部哲学科を卒業後、1940年(昭和15年)に家永一道のいる京都の東福僧堂に掛搭。しかしその後、第二次世界大戦のため兵役により京都を離れ、戦後1948年(昭和23年)に茂松寺住職となり、その頃から再び京都東福僧堂の家永に通参し参禅。
そして家永が愛知県犬山の妙心寺派瑞泉寺閑栖になると、大井も瑞泉僧堂に転錫。その後、家永一道の法嗣となる。そして花園大学教授として禅哲学を教えていたが、1960年(昭和35年)4月、大分の妙心寺派萬壽僧堂(万寿僧堂)師家に就任し、1975年(昭和50年)3月まで15年間在任した。その後、妙心寺山内にある四派の一つ東海庵住職となる。東海本庵でも雲水見習いや花園大学生さらに居士等を指導しつつ、15年間住職として留まった。
そして1990年(平成2年)に大井は方広寺派管長・方広僧堂師家に就任した。また萬壽僧堂師家から方広寺派管長となったのは足利紫山、奧大節に続き大井が史上3人目である。また大井は関雄峰(永源寺派管長)との縁で、座禅指導のためにドイツ各地を訪れ教化に努めた。
2018年(平成30年)2月24日、浜松市高町半僧坊別院の座禅会で無門関を提唱し、満で103歳の誕生日を迎えた2月26日に身体の容態が急変し、翌日の27日に三方原聖隷病院で急性肺炎により死去[3][4]。
脚注
[編集]- ^ 臨済会『昭和・平成 禅僧伝 臨済・黄檗篇』春秋社、2010年9月1日。ISBN 978-4393141151。
- ^ 歴代管長略譜|臨済宗方広寺派大本山 方広寺(ほうこうじ)
- ^ 『季刊 禅文化 248号』禅文化研究所、2018年4月25日 。
- ^ 臨済宗青年僧の会『老躯に鞭て専ら深恩に報ん』不二、1991年7月 。
外部リンク
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