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北条宣時

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
大仏宣時から転送)
 
北条宣時
北条時頼と大仏宣時(菊池容斎前賢故実』、『徒然草』中の逸話より)
生誕 暦仁元年(1238年[1]
死没 元亨3年6月30日1323年8月2日[1]
改名 時忠(初名)[1][2]→宣時、忍照(法名)[1]
別名 大仏宣時、武蔵五郎(通称)[1]、永園寺忍照(法名)[1]
官位 陸奥守[1]遠江
幕府 鎌倉幕府引付頭人[1]連署[1]
氏族 北条氏大仏流
父母 父:北条朝直、母:不明
兄弟 朝房宣時、他多数
宗宣宗泰貞房貞宣
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北条 宣時(ほうじょう のぶとき)は、鎌倉時代中期の武将。北条氏の一門。鎌倉幕府連署大仏 宣時(おさらぎ のぶとき)とも称される。

略歴

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父は大仏流北条氏の祖である北条朝直。初めは時忠(ときただ、通称は武蔵五郎)と名乗っていた[1][2][注釈 1]が、文永2年(1265年6月11日引付衆になった段階では宣時に改名していたという[1]

建治元年(1277年引付頭人になる。弘安10年(1287年)に執権北条貞時連署を務める。その後、陸奥守遠江守などを兼任。正安3年(1301年)に出家元亨3年(1323年6月30日に死去。享年86。

徒然草』第215段に現れる、若き日の宣時が最明寺入道(北条時頼)の邸宅に招かれ、小土器に残っていた味噌を肴に酌をかわしたというエピソードは、当時の鎌倉武士の質素な生活を伝えるものとしてよく知られている。

和歌にも優れており、『続拾遺和歌集』『新後撰和歌集』『玉葉和歌集』『続後拾遺和歌集』『風雅和歌集』『新千載和歌集』『新拾遺和歌集』『柳風和歌抄』『続現葉和歌集』などの歌集に入首している。

細川重男弘安8年(1285年)の霜月騒動の背後に宣時の影響があり、平頼綱と結託して反安達勢力を煽動し、安達泰盛誅伐に関与していたとする説を唱えている。[要出典]

脚注

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注釈

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  1. ^ 宣時以後の宗宣維貞高宣が、時宗貞時高時偏諱を受けているように、大仏流北条氏の当主は、将軍烏帽子親として一字を与えられる得宗家赤橋流北条氏の当主に対し、金沢流北条氏の当主とともに、それよりも一ランク低い、得宗家を烏帽子親とする家と位置づけられていたとの指摘がなされており[3]、「時忠」の名乗りもその方針に従って得宗家当主(=北条時頼?)から「時」の字を与えられたものである可能性がある(金沢流では実時泰時時方(顕時)が時宗を烏帽子親として「時」の字を受けていることが『吾妻鏡』から分かっている)。但し、「時」の字は北条氏の通字であって一族内でも共有されることが多いため、烏帽子親についての明確な史実が判明していない宣時の場合だと、特別得宗家からの偏諱と捉え難いところもある[4]

出典

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  1. ^ a b c d e f g h i j k 奥富敬之 著「北条宣時」、安田元久 編『鎌倉・室町人名事典』(コンパクト)新人物往来社、1990年、551頁。 
  2. ^ a b 群書系図部集』の北条氏系図より。
  3. ^ 山野龍太郎 著「鎌倉期武士社会における烏帽子親子関係」、山本隆志 編『日本中世政治文化論の射程』思文閣出版、2012年、182頁。 脚注(27)
  4. ^ 角田朋彦「偏諱の話」『段かづら』三・四、2004年、19頁。 
先代
北条朝直
時房流北条氏第3代
大仏流2代
次代
北条宗宣