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大伴犬養

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
大伴宿禰犬養から転送)
 
大伴犬養
時代 奈良時代
生誕 不明
死没 天平宝字6年10月9日762年10月30日
官位 従四位下右大弁
主君 聖武天皇孝謙天皇淳仁天皇
氏族 大伴宿禰
藤原仲麻呂
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大伴 犬養(おおとも の いぬかい)は、奈良時代貴族。名は犬甘とも記される。宿禰官位従四位下右大弁

出自

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父母は明らかでない。娘に藤原仲麻呂室がいる。なお、当時大伴氏嫡流には家持がいたが、家持は仲麻呂と関係が良好でなかったことから、大伴本宗家と犬養には若干距離があったと考えるべきかもしれない[1]

経歴

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播磨少掾(この時の位階は従七位上)・式部大丞を歴任したのち、天平12年(740年)1月に正六位上から従五位下に叙せられ、同時に遣渤海大使に任命される。これは前年の渤海使・己珎蒙らの遣使に応じたものである。同年2月2日に己珎蒙が帰国の途につき、4月2日に遣新羅使紀必登新羅に向けて出発したのち、4月20日に辞見して渤海に向け出発した。10月5日に帰国した際、当時九州では藤原広嗣の乱が起こっていたが、その影響については記録がない。天平18年(746年従五位下式部少輔、翌天平19年(747年少納言に叙任される。

天平勝宝元年(749年孝謙天皇即位に伴い従五位上に昇叙。こののち天平宝字2年(758年)まで約10年間、山背播磨守美濃守と地方官を歴任する。この間、天平勝宝5年(753年)に播磨国守の大伴宿禰(欠名)が赤穂郡塩田を開こうとして、墾生山と葦原を墾田として占有し、秦大炬を目代として塩堤を造らせたものの、失敗して天平勝宝7歳(755年)に断念したとの記録があるが[2]、天平勝宝5年は犬養が播磨守を退任した年であることから、この大伴宿禰は犬養を指すものと考えられる。天平宝字元年(757年正五位下

天平宝字2年(758年淳仁天皇の即位直後に右衛士督、天平宝字3年(758年従四位下左中弁次いで右大弁に叙任されるなど、淳仁朝では重用され要職を歴任した。

天平宝字6年(762年)10月9日卒去。最終官位は讃岐守従四位下。なお、2年後に藤原仲麻呂の乱が発生し、仲麻呂は妻子と共に殺されたことから、犬養の娘もその際に殺害されたと想定される。

年譜

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和暦 西暦 日付 事柄
天平4年 732年 従七位上播磨少掾[3]
式部大丞[1]
天平12年 740年 1月13日 正六位上から従五位下に昇叙。遣渤海大使[4]
4月20日 辞見
天平18年 746年 4月22日 外従五位下から内位の従五位下に昇叙[4]
11月5日 式部少輔[4]
天平19年 747年 12月4日 少納言[4]
天平勝宝元年 749年 7月2日 従五位下から従五位上に昇叙[4]
8月10日 山背守[4]
天平勝宝2年 750年 3月12日 播磨守[4]
天平勝宝5年 753年 播磨国守の大伴宿禰が赤穂郡の墾生山と葦原を点じて墾田とした[5]
4月22日 美濃守[4]
天平勝宝7歳 755年 赤穂郡で大伴宿禰の目代が行った塩田開発が失敗し撤退[5]
天平宝字元年 757年 5月20日 従五位下から正五位下に昇叙[4]
天平宝字2年 758年 8月4日 右衛士督[4]
天平宝字3年 759年 5月17日 左中弁[4]
6月16日 正五位下から従四位下に昇叙[4]
7月3日 右大弁[4]
天平宝字6年 762年 10月9日 卒去(讃岐守従四位下)[4]

脚注

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  1. ^ a b 岸俊男『藤原仲麻呂』129頁
  2. ^ 『播磨国坂越神戸両郷解』延暦12年条
  3. ^ 大日本古文書』編年2-151
  4. ^ a b c d e f g h i j k l m n 続日本紀
  5. ^ a b 寧楽遺文

参考文献

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