高麗大山
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時代 | 奈良時代 |
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生誕 | 不明 |
死没 | 天平宝字6年(762年) |
官位 | 従五位下・遣高麗大使(遣渤海大使)、贈正五位下 |
主君 | 聖武天皇→孝謙天皇→淳仁天皇 |
氏族 | 背奈公→王→高麗朝臣 |
高麗 大山(こま の おおやま)は、奈良時代の貴族。氏姓は背奈公のち背奈王、高麗(巨万)朝臣。官位は従五位下・遣高麗大使(遣渤海大使)、贈正五位下。
経歴
[編集]天平19年(747年)従兄弟の背奈福信・弟の広山らと共に王(こにきし)姓を賜与される(この時の位階は外正七位下)。天平勝宝2年(750年)一族と共に高麗朝臣に改姓する。天平勝宝4年(752年)遣唐使判官として唐に派遣され、天平勝宝6年(754年)に帰国し正六位上から従五位下に昇叙される。
天平宝字5年(761年)10月に武蔵介に任ぜられ、まもなく遣高麗大使(遣渤海使)となり、翌天平宝字6年(762年)3月に副使・伊吉益麻呂らと渤海に渡る。しかし、渤海から渤海使・王新福を伴っての帰途船上で病を得て、佐利翼津(さりよくのつ)まで帰り着いたところで没する[1]。最終官位は遣高麗大使従五位下。同年12月に二階の昇叙を受けて正五位下を贈位された。なお同年には弟の高麗広山も遣唐使副使に任命されている。
官歴
[編集]『続日本紀』による。
- 時期不詳:外正七位下
- 天平19年(747年) 6月7日:王(こにきし)姓に改姓
- 天平勝宝2年(750年) 正月27日:背奈王から高麗朝臣に改姓[2]。9月24日:遣唐使判官
- 時期不詳:正六位上
- 天平勝宝6年(754年) 4月7日:従五位下
- 天平宝字2年(758年) 12月16日:見造寺司次官[3]
- 天平宝字5年(761年) 10月1日:武蔵介。10月22日:遣高麗使
- 天平宝字6年(762年) 日付不詳:卒去(遣高麗大使従五位下)。12月11日:贈正五位下