大伴狭手彦
表示
大伴狭手彦と松浦佐用姫(『大日本名将鑑』より) | |
時代 | 古墳時代後期 |
生誕 | 不明 |
死没 | 不明 |
別名 | 佐弖彦、佐提比古郎子 |
主君 | 宣化天皇→欽明天皇 |
氏族 | 大伴連 |
父母 | 父:大伴金村 |
兄弟 |
磐、狭手彦、糠手子、阿彼布古、 宇遅古、咋 |
大伴 狭手彦(おおとも の さてひこ[1])は、古墳時代後期の豪族。佐弖彦、佐提比古郎子とも表記される[1]。カバネは連。大伴金村の三男。『新撰姓氏録』によれば道臣命(大伴氏祖)の十世孫とされる。
経歴
[編集]『日本書紀』によれば、宣化天皇2年(537年?)10月、新羅が任那を侵攻したため、朝鮮に派遣されて任那を鎮めて百済を救った[2]。また同書によると、欽明天皇23年(562年?)8月、大将軍として兵数万を率いて高句麗を討伐、多数の珍宝を獲て帰還したという(一本には欽明天皇11年(550年?)とする)[3]。
これらとほぼ同様の伝えは『日本三代実録』貞観3年(861年)の記事にも見えており、狭手彦の献じた高句麗の囚が山城国の狛人の祖となったという[4]。
そのほか、『肥前国風土記』松浦郡条、『万葉集』巻5には、狭手彦と弟日姫子(松浦佐用姫)との悲話が載せられている[1]。
後裔氏族
[編集]『新撰姓氏録』には、次の氏族が後裔として記載されている。
- 神別 左京 大伴連 - 道臣命十世孫の佐弖彦の後。
- 神別 左京 榎本連 - 道臣命十世孫の佐弖彦の後。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 「大伴連狭手彦」『日本古代氏族人名辞典 普及版』吉川弘文館、2010年。ISBN 9784642014588。