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大内義尊

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
大内 義尊
時代 戦国時代
生誕 天文14年(1545年
死没 天文20年9月2日1551年10月1日
改名 亀童丸(幼名)→義尊
戒名 幻性院真海珠珍[1]、珠珍鳳毛[2]
官位 従五位下周防介
氏族 大内氏
父母 父:大内義隆、母:小槻伊治の娘・おさいの方
兄弟 珠光義尊義教大石義胤
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大内 義尊(おおうち よしたか)は、戦国時代の人物。大内義隆の嫡子。母はおさいの方(小槻伊治の娘)。弟に大内義教

生涯

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大内義隆の嫡男で、義隆が39歳の時に生まれた。母は義隆の2番目の正室であるおさいであるが[3]、実は義隆の実子かどうかを疑われていたという[4]

天文16年(1547年2月17日には3歳にして従五位下及び周防介に叙任される[5][1][6]。新介と称した[1]陶晴賢が義隆に対する謀反の計画を企図した際、最初は義隆の隠居と義尊の新当主擁立が決められていたが、この義尊の実子か否かの問題のために晴賢は計画を変更して義隆・義尊殺害に変更したとされている[4]

天文20年(1551年8月29日、晴賢が謀反を起こすと、父の義隆や公家衆とともに山口より脱出し、長門大寧寺へ逃れた。この時、義尊は幼少のため従者(同朋衆の龍阿)に背負われていたという[5]。しかし幼児ながらも謀反に動揺せず立派な態度を見せたと伝わる[註 1]

天文20年(1551年9月1日、義隆は大寧寺において自害。義尊も小幡義実に連れられて逃亡を図るが同日に捕らえられた[5]。この時、陶隆房は助命すると述べて捕虜にしたのだが[7]、翌日には約束を反故にされて義尊は殺害された[5][7]大寧寺の変)。享年7歳[8][4][9][10][11][12][註 2][註 3]。殺害された場所は、俵山温泉の現在麻羅観音がある奥とされる[13]。また翌年大内義尊の弟の大内歓寿丸も捕らえられ、同じ場所で殺されている[13]

関連作品

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テレビドラマ

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脚注

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注釈

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  1. ^ 『大内義隆記』では「御曹子何の心もましまさず」とある。
  2. ^ 『大内系図』には12歳とある。
  3. ^ 『大寧寺過去帳』には「忌日一日」とある。

出典

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  1. ^ a b c 『大内系図』
  2. ^ 『大寧寺過去帳』
  3. ^ 相良家文書
  4. ^ a b c 大内義隆記
  5. ^ a b c d 福尾猛市郎 1989, p. 68.
  6. ^ 歴名土代群書類従22巻419頁収録、内外書籍
  7. ^ a b 福尾猛市郎 1989, p. 174.
  8. ^ 『言延覚書』
  9. ^ 『大内義隆記』異本
  10. ^ 『中国治乱記』
  11. ^ 『房顕記』
  12. ^ 歴名土代
  13. ^ a b 長門市、俵山温泉観光協会、俵山下安田区住民、俵山旅館組合、俵山温泉旅館組合、俵山温泉合名会社による昭和59年に合同建立された麻羅観音の説明板の内容より(現地)

参考文献

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書籍
  • 近藤清石『大内氏實録』中元壮作、宮川臣吉、山口県山口町、1885年10月28日。 NCID BA33800345 オープンアクセスNDLJP:780384
  • 福尾猛市郎 著、日本歴史学会 編『大内義隆』吉川弘文館〈人物叢書 新装版〉、1989年10月。ISBN 4642051732NCID BN03823762全国書誌番号:89061490 
史料
  • 『大内系図』
  • 『大内義隆記』
  • 『言延覚書』
  • 『相良家文書』
  • 『大寧寺過去帳』
  • 『中国治乱記』
  • 『房顕記』
  • 歴名土代

関連項目

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外部リンク

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