大原亮治
大原 亮治 | |
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渾名 | ラバウルの撃墜王 |
生誕 |
1921年2月25日 宮城県 |
死没 | 2018年11月2日(97歳没) |
所属組織 | 日本海軍、海上自衛隊 |
軍歴 |
1940 - 1945(海軍) 1953 - 1971(海自) |
最終階級 |
海軍飛行兵曹長(海軍) 三等海佐(海自) |
戦闘 |
ソロモン諸島の戦い 本土防空戦 |
除隊後 | 航空振興財団航空操縦教官 |
大原 亮治(おおはら りょうじ、1921年(大正10年)2月25日 - 2018年(平成29年)11月2日)は、大日本帝国海軍の軍人、戦闘機操縦士。最終階級は海軍飛行兵曹長 。
経歴
[編集]1921年(大正10年)2月25日、宮城県の農家に生まれた。昭和15年6月、一般航空兵として横須賀海兵団に入団する。海兵団から千歳航空隊を経て、1941年(昭和16年)5月、第4期丙種飛行予科練習生となり、土浦海軍航空隊に入隊。1942年(昭和17年)7月に飛練を卒業し、戦闘機操縦者として大分航空隊へ入隊し、ここで九〇式復座練習戦闘機、九五式艦上戦闘機での訓練を終えた後、その年の10月にはブイン基地の第六海軍航空隊に交代要員として着任した。
1942年(昭和17年)10月19日に初空戦を経験すると、同月23日にはガダルカナル上空でVMF-12のF4F10機と戦い、初撃墜を記録している。 大原は1943年(昭和18年)11月に横空へ着任するまで204空(六空から改称)で奮戦し、本土へ帰還した。
以降、本土防空戦に従事していたが、1945年(昭和20年)4月9日、原因不明の高熱を押してB-29迎撃戦の最中、後方からP-51に撃たれ被弾、陸軍の相模原飛行場に胴体着陸した後、軍医から腸チフスの診断を受け、そのまま約80日間の入院を余儀なくされた。退院後の1945年(昭和20年)8月17日、本土偵察に飛来したB-32に対する迎撃戦に、零戦に搭乗して参加し、これが大戦最後の出撃となった。
戦後は、1953年(昭和28年)に海上警備隊(現在の海上自衛隊)に入隊し、1971年(昭和46年)に三佐で退官。その後は民間航空のパイロット養成にあたった。
戦後本人への取材無く、ヘンリー境田が著した戦記本には、「ラバウルの殺し屋」と書かれ憤慨した。その後の改訂版では「ラバウルの撃墜王」に改められた。
2018年(平成30年)11月2日死去(満97歳没)[1][要出典]。
脚注
[編集]出典
[編集]- ^ 水交NO.656、令和元年清秋号、令和元年10月1日、99頁
参考文献
[編集]- ヘンリー・サカイダ著『日本海軍航空隊のエース』大日本絵画、2000年。
- 神立尚紀著『零戦の20世紀 - 海軍戦闘機隊搭乗員たちの航跡 (スコラスペシャル - ミリタリーシリーズ (40))』スコラ、1997年 ISBN 978-4796295390