コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

大塔村立向山小学校

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
大塔村立向山小学校

2020年11月現在の向山小学校跡地
過去の名称 三川第三尋常小学校
三川第三尋常高等小学校
三川第三国民学校
三川第三小学校
国公私立の別 公立学校
設置者 大塔村
設立年月日 1879年(明治12年)頃
閉校年月日 1979年(昭和54年)3月31日
共学・別学 男女共学
分校 深谷分校
所在地 646-1323
和歌山県西牟婁郡大塔村向山
(廃校当時)
ウィキポータル 教育
ウィキプロジェクト 学校
テンプレートを表示

大塔村立向山小学校(おおとうそんりつ むかいやましょうがっこう)は、和歌山県西牟婁郡大塔村(現 田辺市)にあった公立小学校である。

沿革

[編集]
  • 1879年 - 経費を持ち寄り岡野金哉氏を師として雇い、保平126番地1号に民家を借りて読み書きそろばんを教える[1]。なお、校地跡に建つ百周年記念碑にはこの年に合川尋常小学校(後の三川第一小学校)の分教場として開校したとあるが、昭和62年発刊の大塔村誌には明治35年に分教場となったことが記載されている。一方で三川第一小学校跡の碑には明治35年開校とあるので、ここでは大塔村誌を採用した[1][2][3]
  • 1889年 - 村費勘定帳に学校建物費勘定と記載されるものの、詳細記述はない[1]
  • 1902年4月1日 - 大字下地540番地の庵寺を使用して、合川尋常小学校の分教場として開校し、中岡右太次が教師として就任する[1]
  • 1905年 - 合川尋常小学校が分教場を廃し三川第一尋常小学校と改称する。分教場はそれぞれ独立し、第二尋常小学校を五味に、第三尋常小学校を向山に設置する。これに伴い、三川第三尋常小学校と改称する。同年、保平132番地に移転し新校舎の建築を始める[1]
  • 1906年1月 - 新校舎落成。この時の児童数は男子21名、女子32名、職員1名[1]
  • 1910年? - 深谷家庭教育場を分教場として2学級編成となる[1]
  • 1919年3月 - 深谷分教場の校舎老朽化に伴い新校舎を新築落成する[4][1]
  • 1926年
    • 7月1日 - 文部省令により青年訓練所を併設する[1]
    • 10月2日 - 校舎移転改築が始まる[1]
    • 11月5日 - 保平131番地の民家を借入れ、仮校舎として授業を始める[1]
  • 1927年
    • 1月15日 - 大字向山下地522番地に移転し新校舎を落成し授業を始める[1]
    • 11月1日 - 三川、豊原、各校連合運動会が当校にて行われ、当校が優勝する[1]
  • 1928年11月22日 - 各校連合運動会を三川第一尋常小学校において行われ、当校が再度優勝する[1]
  • 1929年10月25日 - 大字西大谷を併設している第三青年訓練所入所区域に編入する[1]
  • 1930年6月18日 - 豊原尋常高等小学校西大谷分教場を廃止し、西大谷を当校就学区域とする[1]
    • 6月28日 - 入学式を行う[1]
  • 1932年4月1日 - 1学級増設し、教員一名を増やす。本校で4学級、教員4名、深谷分校に第5学級、教員2名を設置する。この際の児童数は164名で内訳は以下の通り[1]
    • 第一学級:17名
      • 尋常1年生:男子7名、女子10名
    • 第二学級:44名
      • 尋常2・4年生:男子10名、女子10名
      • 補習:男子12名、補習女子12名
    • 第三学級:33名
      • 尋常3年生:男子17名、女子16名
    • 第4学級:37名
      • 尋常5年生:男子8名、女子11名
      • 尋常6年生:男子10名、女子8名
    • 第五学級(深谷分校):33名
      • 尋常1~3年生:男子12名、女子7名
      • 尋常4~6年生:男子9名、女子5名
  • 1933年7月1日 - 高等科の開校式が行われ、三川第三尋常高等小学校と改称する[1]
  • 1934年4月 - 児童数194名を数える。内訳は以下の通り[1]
    • 第一学級:40名
      • 尋常1年:22名
      • 尋常2年:18名
    • 第二学級:36名
      • 尋常3年:17名
      • 尋常4年:19名
    • 第三学級:49名
      • 尋常5年:30名
      • 尋常6年:19名
    • 第四学級:32名
      • 高等1年:18名
      • 高等2年:18名
    • 第五学級(深谷分校):計37名
  • 1935年7月12日 - 三川第三青年学校開校式と入学式を行う[1]
    • 10月 - 深谷分校の校舎増築完了[4]
  • 1941年4月1日 - 国民学校令により三川第三国民学校に改称する[1]
  • 1943年4月7日 - 児童163名を数える。内訳は以下の通り[1]
    • 第一学級
      • 初等科1年:男子9名、女子5名。
      • 初等科2年:男子9名、女子11名。
    • 第二学級
      • 初等科3年:男子10名、女子4名。
      • 初等科4年:男子5名、女子7名。
    • 第三学級
      • 初等科5年:男子11名、女子8名。
      • 初等科6年:男子9名、女子7名。
    • 第四学級
      • 高等科1年:男子6名、女子11名。
      • 高等科2年:男子4名、女子10名。
    • 第五学級
      • 初等科1年:男子4名、女子3名。
      • 初等科2年:男子5名、女子3名。
      • 初等科3年:男子4名、女子1名。
    • 第六学級
      • 初等科4年:男子3名、女子2名。
      • 初等科5年:男子1名、女子5名。
      • 初等科6年:男子2名、女子4名。
    • 4月12日 - 当村青年学校独立により、当校にその分校を開設する[1]
  • 1946年3月22日 - 修了式を行う。この年の修了者は以下の通り[1]
    • 初等科:男子10名、女子8名。計18名
    • 高等科:男子11名、女子6名。計17名
  • 1947年3月31日 - 学制改革により三川第三小学校に改称する[1]
    • 5月3日 - 三川中学校第三分校を併設し、授業開始する[1]
  • 1948年
    • 4月13日 - 本校3学級、分校2学級にて入学式と始業式を行う。男子17名、女子18名の計35名が入学する[1]
    • 12月24日 - 放出物資を得て第一回給食を実施する[1]
  • 1949年
    • 4月8日 - 本校6学級、分校3学級となる[1]
    • 4月18日 - 深谷トンネルが開通し、開通祝賀式が行われる。児童生徒の旗行列を行う[1]
  • 1951年4月1日 - 本校5学級、分校3学級となる[1]
  • 1956年9月25日 - 向山小学校と改称する[1]
  • 1957年 - 新校舎落成。落成式を行う[4]
  • 1978年8月15日 - 100周年記念行事を行う[4]
  • 1979年3月31日 - 豊原小学校向山小学校深谷分校と合併し大塔村立三川小学校(のち、田辺市立三川小学校となるが、2015年、田辺市立鮎川小学校 に統合により廃校)となる[2][5]

閉校後の利用

[編集]
校舎跡地に立つ百年碑

校舎跡地は2020年現在、集会所が建てられ利用されている。

また、校舎跡手前に100周年記念碑の「百年碑」が立ち、沿革が刻まれている。

奥の建物には校章が残っている。

建物に残る校章

関連項目

[編集]

脚注

[編集]
  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag 大塔村誌. 和歌山県西牟婁郡大塔村. (1987) 
  2. ^ a b この記述は校舎跡地に立つ向山小学校百年碑に記載されている沿革を参考にしている。
  3. ^ この記述は大塔村立三川第一小学校跡地に立つ三川第一小学校跡の碑に記載されている沿革を参考にしている。
  4. ^ a b c d この記述は深谷分校校舎跡に建てられた100周年記念碑に書かれた略史を参考にしている。
  5. ^ 大塔公民館だより 平成27年5月”. 田辺市大塔公民館. 2020年12月8日閲覧。