大山綱栄
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時代 | 江戸時代中期 |
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生誕 | 正徳5年(1715年) |
死没 | 天明8年2月23日(1788年3月30日) |
改名 | 幼名:彦太郎 |
別名 | 諱:広伴→広品→綱栄、通称:休左衛門、文左衛門、彦兵衛 |
戒名 | 觀機軒即庵堅居士 |
墓所 | 曹洞宗福昌寺末寺の松原山南林寺墓地、大正年間の改葬先不詳。 |
幕府 | 江戸幕府 |
藩 | 薩摩藩 |
氏族 | 大山氏 |
父母 | 父:大山六郎兵衛綱広 |
子 | 綱道 |
大山 綱栄(おおやま つなひで)は、江戸時代中期の薩摩藩鹿児島城下士。家格は初め小姓与から、のち一代新番。宝暦6年10月(1756年)当時の石高は71石。
経歴
[編集]父の六郎兵衛綱広(? - 享保12年(1729年)6月25日)は寺社方取次をつとめて一代新番となっていた。子の綱道の代で代々小番(小番の家格を世襲できる身分)になる。藩職は表小姓、御側小姓、中通御目付([1]、喜界島代官。側小姓時代は藩主島津継豊に近侍。その参勤交代に同行して江戸に数回赴く。中御目付時代に家格が御小姓与から一代新番に昇格。
生涯
[編集]宝暦6年(1756年)島津重豪の藩主就任時に、薩摩藩国目付になった京極兵部高主、青山成親らに提出するために宝暦6年10月に改めた薩摩藩分限帳では「小納戸役、大山文左衛門 71石 外蔵米48俵[2]」として登場。この時には、通称が文左衛門になり、石高は71石になっていたようである。なお、子の大山綱道も「大山休左衛門」として同資料に登場する。宝暦9年(1759年)、喜界島代官として喜界島に渡海する。当時の通称は文左衛門。宝暦11年(1761年)、任期満了につき鹿児島に戻る。天明8年(1788年)2月23日、死去。享年74。
家族・親族
[編集]- 父:大山六郎兵衛綱広(寺社方取次を勤める)
- 子女:大山綱道