大岡忠吉
表示
時代 | 江戸時代初期 |
---|---|
生誕 | 天正15年(1587年) |
死没 | 明暦2年4月16日(1656年5月10日) |
別名 | 兵蔵(通称)、忠葦 |
墓所 | 神奈川県茅ヶ崎市の浄見寺 |
官位 | 従五位下・美濃守 |
幕府 | 江戸幕府 女院付 |
主君 | 徳川秀忠→家光 |
氏族 | 大岡氏 |
父母 | 大岡忠政 |
兄弟 | 忠俊、忠行、忠世、忠吉 |
妻 | 加納久利の娘 |
子 | 忠章、三浦吉明、忠宗、忠房、戸田政次室、石野広重室 |
大岡 忠吉(おおおか ただよし)は、江戸時代初期の旗本。官位は従五位下・美濃守。旗本・大岡忠右衛門忠政の四男。相模国高座郡高田村の地頭。大岡忠相の曽祖父。大岡忠光の高祖父。
生涯
[編集]慶長8年(1603年)、16歳の時に将軍家に拝謁して、翌慶長8年(1603年)には父・大岡忠政から、相模国高座郡高田村に160余石の所領を分与された。
慶長18年(1613年)、幕府よりさらに飛び地として、相模国鎌倉郡手広村を与えられる。
慶長19年(1614年)、大坂の陣では幕府方に従軍。寛永3年(1626年)には所領は1500石となる。その後、所領は2300石までなった。
寛永10年(1633年)、女院付となり、2代将軍・秀忠の娘・東福門院(徳川和子)に近習した。のち従五位下・美濃守に叙任される。この際、飛び地として山城国相楽郡へ300石加増された。
明暦2年4月16日(1656年5月10日))に死去。享年70。嫡男の忠章が跡を継ぎ、2000石の旗本となった。
他に次男の吉明は三浦を称し2000石の旗本となった。四男の忠房には300石を分け与え、のち岩槻大岡家の祖となった。また水戸藩主徳川治保は忠吉の血[1]を引いている。
脚注
[編集]- ^ 大岡忠吉―女子(石野広重室)―石野広次―広高―榊原篤郷―智仙院―徳川治保