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大岬音右エ門

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
大岬丈右エ門から転送)
大岬 音右エ門
基礎情報
四股名 関之戸 音右エ門 → 関ノ戸 音右エ門 → 大見崎 音右エ門 → 大岬 音右エ門 → 大岬 丈右エ門 → 大岬 丈右衛門
本名 不明
生年月日 不明
没年月日 1814年8月3日
出身 陸奥国仙臺(現・宮城県仙台市)
身長 191cm
体重 不明
所属部屋 秀ノ山部屋
成績
現在の番付 引退
最高位大関
生涯戦歴 57勝24敗3分1預6無70休(17場所)
幕内戦歴 生涯戦歴と同数
優勝 {{{優勝}}}
{{{賞}}}
データ
初土俵 1801年11月場所(江戸・大関付出)
入幕 1801年11月場所(江戸・大関付出)
引退 1814年4月場所
備考

大岬 音右エ門(おおみさき おとえもん、生年不明 - 1814年9月16日文化11年8月3日〉)は、秀ノ山部屋に所属した元力士[1]大岬音右衛門との表記もある[2]

本名は徳田と伝わるが不明[1]。身長191cm、体重は不明[1]陸奥国仙臺(現在の宮城県仙台市)出身[1][2][3]

最高位は東大関

1801年11月場所で、「仙臺」頭書の関之戸音右エ門で看板大関として付出された[2]。看板大関にありがちな土俵入りのみを行う力士とは違い、本場所の相撲も取った。文化年間に入ると看板大関の地位を辞退して、他の力士と変わらない身分で相撲を取るようになった。幕内では勝率が高く、1810年10月場所で7勝2敗1の優勝次点(優勝相当成績は雷電爲右エ門で7勝1敗1休1分)の好成績を挙げた[4]。1814年4月場所で12年ぶりに大関に返り咲いた[1]が、初日の日下山(ひげやま)戦に勝利したのみで残りを休場[5]。そしてこの場所終了後の1814年8月3日に現役中のまま死去した。

抱えは死去までに、仙台藩(1801年11月 - 1803年5月)→ 高松藩(1803年10月 - 1807年11月)→ 久留米藩1808年10月 - 1814年4月)と変わった。

幕内通算 17場所 57勝24敗3分1預6無70休の成績を残した。

改名歴は5回ある:関之戸 音右エ門 → 関ノ戸 音右エ門 → 大見崎 音右エ門 → 大岬 音右エ門 → 大岬 丈右エ門 → 大岬 丈右衛門[1]

出典

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  1. ^ a b c d e f http://sumodb.sumogames.de/Rikishi.aspx?r=3200&l=j
  2. ^ a b c 大関伝 75人目~91人目相撲評論家之頁のHP。85人目 大岬 音右衛門を参照。
  3. ^ 出羽国村山郡(現在の山形県寒河江市)出身という説もある。
  4. ^ 文化10年秋場所大相撲星取表のHP。尚、雷電にとってはこれが生涯最後の優勝(28回目)だった。
  5. ^ 文化11年春場所大相撲星取表のHP

関連項目

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