大森浜
概要
[編集]住吉漁港より湯の川温泉、松倉川河口付近までの津軽海峡に面していて、晴れた日には津軽海峡越しに下北半島を望むことができる風光明媚な場所である[1]。
かつて、この一帯(現在の高盛町、日の出町)には津軽海峡から運ばれてできた高さ30メートル、東西1キロメートル、南北300メートルもの砂山[2]があり、大森は、その砂の盛り上がる「大盛り」より名付けられた。2023年(令和5年)の今でも砂が風で巻き上げられ周辺の道路や駐車場に積もる現象がみられる[3]。
砂山にはハマナスが咲き美しい景観が広がっていた。戦前、青函連絡船通信用の無線送信所があったが、昭和9年函館大火で焼失。また、貧しい人々が砂山に穴を掘って建てた掘立小屋の並ぶ「サムライ部落」「砂山部落」と呼ばれる地域であったが、戦後、砂鉄を取るため砂山は取り崩され、掘立小屋も立ち退きにより、現在はその面影はない[2]。明治時代、亀田村・鍛冶村経由のルートと並び函館区と下湯川村(のちの湯川町)を結ぶルートの一つであったが、1887年(明治20年)に亀田村から直接向かうルートが開通した。 函館市内を流れる亀田川は元々函館港側に河口があったが、年々土砂を運び港を浅くし、1877年(明治10年)ごろからコレラなど伝染病が出始めたので、1883年(明治16年)に内務省に雇われていたオランダの土木技師ローウェンホルスト・ムルデル(Anthonie Thomas Lubertus Rouwenhorst Mulder)の提案と設計により、1888年(明治21年)に大森浜へ切り替えられた。
1934年(昭和9年)3月21日、函館大火が起き、この浜へ避難した人々が炎と激浪の挟み撃ちになって逃げ場を失い溺死、または凍死した者が多数出た。
年表
[編集]- 1882年(明治15年)8月 - 青森県東津軽郡一本木村(現・今別町)との間に海底通信ケーブルが敷設された
- 1885年(明治18年) - 海水浴場開設
- 1888年(明治21年)- 亀田川切り替え。河口になる
- 1934年(昭和9年)3月21日 - 昭和9年函館大火被災。多数の死者が出る。また青函連絡船無線送信所が焼失
- 1954年(昭和29年) - 遊泳禁止区域に指定され海水浴場が廃止される
- 1958年(昭和33年) - 啄木小公園開園
公共施設等
[編集]1882年(明治15年)8月に青森県東津軽郡一本木村(現・今別町)との間に海底通信ケーブルが敷設された[4]。1885年(明治18年)には海水浴場が設けられたが、1954年(昭和29年)に事故防止で遊泳禁止区域となったために廃止された[5][1]。
文化
[編集]1907年(明治40年)に石川啄木が函館に移り住んだ際に、大森浜と砂山を愛し歌を詠んだことにちなみ、1958年(昭和33年)、大森浜沿いに「啄木小公園」が整備され、本郷新作の銅像が置かれている[2]。
交通
[編集]- 路線バス
- 札幌方面より
脚注
[編集]- ^ a b "大森浜" はこだてフィルムコミッション 2024年3月2日閲覧
- ^ a b c 『函館市史』通説編第4巻 コラム48「大森浜の砂山」 - 公立はこだて未来大学
- ^ "雨・風強まる函館市内からの報告 砂浜から巻き上げられた砂がたまって駐車場が…" 北海道テレビ放送 2023年11月17日更新
- ^ "日本での海底通信ケーブル年表" NTTワールドエンジニアリングマリン 2024年3月2日閲覧
- ^ 市史余話75 啄木も見た大森浜海水浴場 - 函館市中央図書館
関連項目
[編集]この節の加筆が望まれています。 |
参考文献
[編集]- 北海道新聞社 編『はこだて歴史散歩』。ISBN 9784893633156。
外部リンク
[編集]- 石川啄木座像(啄木小公園) - 函館市公式観光情報"はこぶら"