大歳克衛
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大歳 克衛(おおとし かつえ、1929年(昭和4年)4月16日 - 2014年(平成26年)6月8日)は、広島県出身の洋画家である。広島市立大学名誉教授、尾道市立大学名誉教授。中国文化賞を受賞。
略歴
[編集]1929年(昭和4年)4月16日、安佐郡緑井村(現・広島市安佐南区緑井)に生まれる。1948年(昭和23年)、旧制崇徳中学校を卒業。1954年(昭和29年)には東京芸術大学油絵科卒業。梅原龍三郎に師事する。1956年(昭和31年)より国画会に出品し初入選。1958年(昭和33年)、「海の詩」などで国画会新人賞を受賞する。翌年には安井賞候補にも選ばれる。
1962年(昭和37年)には国画会会員となり、1964年(昭和39年)より1年間パリに滞在。1970年(昭和45年)、日本洋画商協同組合展に選ばれる。また同年には再び安井賞候補にも選ばれている。
1994年(平成6年)より広島市立大学芸術学部教授となり、1998年(平成10年)に同大学大学院教授となり、2000年(平成12年)に同大名誉教授となる。第57回中国文化賞を受賞する。
2014年(平成26年)6月8日、肺炎のため、広島市安佐南区の自宅で死去、85歳。[1]
人物
[編集]- 実父も画家として活躍し、中国文化賞の候補となっている。
- 子どもの頃から絵が好きで、「中国新聞の児童画コンクールでは毎年、一席か二席」であったという。
- 東京に出た際に、絶対的な自信があった絵だが、大学では全国から集まった才能に圧倒されたという。その為、デッサンの場所取りのために毎朝7時前には登校し、アルバイトは似顔絵描きをし、絵筆を放さなかった。
- 国画会で新人賞に選ばれ、美術評論家の福島繁太郎の目に留まり、福島の経営する画廊の専属となった。
- 自ら「完全主義」という姿勢で画境を深化させてきた。
- 市立大の教授就任がなければ故郷・広島に戻るつもりはなかったという。本人は「中央志向というか、権力志向というか、東京の刺激がないと創作できないと思っていた」と語っている。だが、広島で若者と触れ合ううちに考え方を変え、「場所や評価はどうでもいい。今は自分しか描けない絵を描いてゆきたいと思うだけ」と語っている。[2]
脚注
[編集]- ^ 大歳克衛氏(おおとし・かつえ=洋画家、広島市立大・尾道市立大名誉教授) 中国新聞 2014年6月11日
- ^ 第57回中国文化賞受賞-中國新聞(http://www.chugoku-np.co.jp/prf/bunka/57bunka/bunka1.html)