大沼法龍
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大沼 法龍(おおぬま ほうりゅう)(旧姓 村岡 正人、1895年〈明治28年〉12月10日 - 1976年〈昭和51年〉4月17日)[1] は、日本の仏教家。大正から昭和の時代に活躍した西本願寺の布教使である[2]。
経歴
[編集]明治28年(1895年)12月10日山口県岩国市に生まれる。その後 1911年広島第四仏教中学校(現 崇徳高校)に入学した。1916年に仏教大学(現 龍谷大学)に予科入学し、1921年(大正10)同校の研究科に入学する。その後、1923年に信心を獲得し、1924年に研究科を卒業した。その年の12月に北九州市八幡東区の敬行寺に入寺した。ハワイでの布教などの布教活動を積極的に行った。 その後数々の著書を発刊。
浄土真宗から異安心(異端)として責められ、僧籍を剥奪、破門された[3][4][5]。大沼や横田慶哉は、「往生」は肉体の死後ではなく、いまこの場ではたされなければならないと説いた(即得往生、平生業成)[3]。精神的転機を「一念」と呼んで強調した[3]。「一念」の前段階を「三定死(進むも死、退くも死、とどまるも死という絶体絶命の境地)」と名付けた[3]。
著書
[編集]- 聖の跡 1925年4月
- 思ひの侭 1930年
- おやごころ 1930年3月
- 原稿集 1930年3月
- 歓喜の余滴(三巻) 1935年
- 魂のささやき 1935年
- 他力信仰録 1936年
- 光輪 1952年
- 随想録 1953年1月
- 本派本願寺の危機 どちらが異安心か 1955年12月
- 歓喜の泉 1956年9月
- 聖典 1956年
- 法界 1961年1月
- 入信の道程 1969年
- 昭和の歎異鈔 1969年10月
- 末代の灯明台 1970年
- 親の念願・遺訓 1971年2月
- 信仰に悩める人々へ 1972年2月
- 聖訓 1972年
- 慈訓 1972年4月
- 明闇 1972年
- 親鸞聖人に聴く 1972年
- 教訓 1972年8月
- 宗訓 1972年10月
- 方便より真実へ 浄土真宗 1973年
- 心の転換 1974年9月
- 広大難思の大慶喜 1974年10月
- 六方礼経の講話 1975年
- 八万の法蔵は聞の一字に摂まる 1975年
- 分陀利華 1976年10月
- 宝典 1976年