大澤雅休
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大澤 雅休(おおさわ がきゅう、1890年12月17日 - 1953年9月12日)は、昭和時代の日本の書道家。平原社主宰。日本の書道界における前衛派の先駆けである。
略歴
[編集]群馬県高崎市の農家の長男として生まれる[1]。小学校教員の傍ら、村上鬼城に俳句を習い[2]、『ホトトギス』に小説や俳句を発表する[1]。1918年、アララギ会員となり[1][2]、1922年、野菊短歌会を創立して短歌誌『野菊』を創刊する[1][2]など、文学界で活動する。1933年、比田井天来に師事し[1][2]、上田桑鳩らが学んだ書道芸術社の同人となり[1]、大日本書道院第1回展で最高賞を受賞した[1]。やがて平原社を主宰し、また書道芸術院の創立にも参加した[1]。
雅休の余白に墨を散らす手法などは、現代書表現の基盤を準備したと評価される[1]。遺作18点は群馬県へ寄贈され、群馬県立近代美術館に収蔵された[1]。
エピソード
[編集]- 死後の1953年、同人が日展に「黒嶽黒谿」を出品しようとしたが陳列拒否され論議を呼んだ[要出典]。
主な作品
[編集]- 「黒嶽黒谿」
- 「墨の詩」
主な著書
[編集]- 『平原書林第1号』
脚注
[編集]関連書籍
[編集]- 表立雲『大澤雅休・大沢竹胎の書』
- 『季刊書道ジャーナル』61号
- 棟方志功『大澤雅休作品集』