大特許状 (1477年)
大特許状(だいとっきょじょう、仏:Grand Privilège、蘭:Groot Privilege)は、1477年2月11日にブルゴーニュ女公マリーが、諸領邦に授与した全20条からなる特権。
成立の背景
[編集]ブルゴーニュ公シャルル(突進公/テメレール)は、勢力拡大を目指してブルゴーニュ戦争を起こしたが、1477年1月5日にナンシーの戦いで戦死する。
ブルゴーニュ公位の後継者は19歳のマリーであった。混乱に乗じて、フランス王ルイ11世はブルゴーニュ領に侵攻する。1月24日に、ブルゴーニュ宮廷はシャルル突進公の死去を認めた。
2月3日に議会が開会されるが、強権的だったシャルル突進公に対する反発から、ブルゴーニュ領ネーデルラント(ブルゴーニュ国家)各都市から請願が行われた。フランス軍の侵攻が迫る中で、マリーは大特許状に署名を行わざるを得なかった。
内容
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- メヘレン高等法院の廃止
- 大顧問会の設立
- 全国議会の権限拡大
評価
[編集]ベルギーの歴史研究家:アンリ・ピレンヌによれば、大特許状で認められた様々な改革は、結果的に機能せず、ブルゴーニュ領ネーデルラントを統合していた中央諸制度を破壊したものとされ、その意義は否定されている[1]。ピレンヌの説に対しては、様々な異論がある[2]。
一方、ポール・ファン・ウッセルは、マリー側が暴力に屈せず譲歩した点からイングランドのマグナ・カルタ(大憲章)同様の当時一般的な国制文書(landcharter)であり、連邦主義の嚆矢であると評価し、エミール・ルースもこの説を支持した[2]。
その後
[編集]孤立無援となったマリー女公は、3月26日付で婚約者マクシミリアンに救いを求める手紙を出し[3]、8月19日に結婚するが、1482年3月27日に落馬事故で逝去する。マリー亡き後、領邦はマクシミリアンに叛乱を繰り返す。最終的に、1492年10月に反乱軍が敗北し、各都市は特権を剥奪され、ハプスブルク家による中央集権的統治が確立された。
脚注
[編集]出典
[編集]参考文献
[編集]- 畑奈保美「1477年マリー・ド・ブルゴーニュの「大特権」--低地の自立主義と「ブルゴーニュ国家」をめぐって」『歴史』第94巻、東北史学会、2000年4月、1-31頁、NAID 40003813904。
- 江村洋『中世最後の騎士 : 皇帝マクシミリアン一世伝』中央公論社、1987年3月。ISBN 978-4120015618。 NCID BN00975935。