大總持寺
大總持寺(だいそうじじ)は、現在の中華人民共和国陝西省の古都・西安市南西郊外に、隋唐代に存在した仏教寺院である。常用漢字での表記は大総持寺。
その故地は唐朝の都、長安城においては、右街の第5街第13坊である永陽坊に相当し、長安城の西南隅に当たる。よって、西面と南面とは城壁に沿っており、北は和平坊、東は昭行坊に対していた。西域から将来された仏牙で知られた。
概要
[編集]605年(大業元年)に、隋の煬帝が父・文帝と母・独孤皇后の追福のために建立した西禅定寺がその始まりである。また、隣接する大荘厳寺は、文帝が妻の独孤皇后の追善のため仁寿3年(603年)に建立した寺であり、当初は禅定寺と呼ばれたが、西禅定寺が建立されて以後は東禅定寺と呼ばれた。また、両寺には七重の木塔が造立された。
西禅定寺の塔は、宇文愷の要請によって造立されたもので、高さが330尺あったという。その寺内には、300名余りの公度僧が住し、道嶽という少壮の僧が住持したという(『続高僧伝』巻13)。その他、保恭や神廻らの学僧らが住し、『大智度論』『摂大乗論』『成実論』などが講じられた。
唐が建てられると、618年(武徳元年)に高祖が西禅定寺を大總持寺と改名し、翌2年(619年)には東禅定寺を大荘厳寺と改名した。
708年(景龍2年)には、中宗が9月9日に七重木塔に登ったという記録がある。
845年(会昌5年)の、武宗による会昌の廃仏の時には、大慈恩寺・西明寺・大薦福寺と共に、廃寺を免れ、847年(大中元年)の復仏時に、寺名を聖寿寺と改められた。
廃仏後には本寺は荒廃していて、木塔も絶えていたおり、その様を見た宣宗が再建を命じた、という。3月には、寺主に叡川、都維那に玄暢が任ぜられ、三教首座の弁章(のち、慧霊)が統括を命ぜられた。
関連項目
[編集]参考文献
[編集]- 小野勝年著『中国隋唐長安・寺院史料集成』(法藏館、1989年)ISBN 4831874183 (史料篇) ISBN 4831874183 (解説篇)
- 徐松撰、愛宕元訳注『唐両京城坊攷:長安と洛陽』(「東洋文庫」577、1994年)ISBN 4582805779