大菅中養父
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大菅 中養父(おおすが なかやぶ、宝永7年(1710年) - 安永7年1月4日(1778年1月31日))は江戸時代中期の国学者。彦根藩陪臣。名は圭、公圭、白圭。通称は権兵衛。字は瓚美。別号に芥(芹?)水。号は居住地近江国犬上郡中薮村(滋賀県彦根市中藪)に因む。
賀茂真淵に師事して日本の古典を研究し、彦根の地に国学の種を巻いた。田中道麿の師としても知られる。
生涯
[編集]宝永7年(1710年)、彦根藩印具氏家老の家に生まれる。契沖の歌論を好み、賀茂真淵に師事して古典を学んだ[1]。中年の頃、時流に従い荻生徂徠の古文辞学も学びながらも、日本の古典の研究を続けた[1]。
晩年研究成果を著書に纏めることを志したが、安永5年(1776年)春病に罹り、「もう終わりだ。我が著作の志は遂げられない。造物者が自分を休息させようとしているのか。かの皐如たる者が欲しい。」と子や弟子に告げて[2]、城南安楽寺山に寿蔵を作らせ、中養父自ら詩を刻んだ[1]。辞世は「三栗の中養父大人が奥都城はいづらと問はゞこゝと答へよ」[3]。1月4日死去。墓所は青波村江東庵[3](彦根市芹川町江東寺か)。跡は婿養子の大菅南坡が継いだ。
主な著作
[編集]- 『国歌八論斥非』 - 宝暦11年(1761年)3月成立。荷田在満『国歌八論』を批評する。本居宣長『国歌八論斥非評』、藤原維斎『国歌八論斥非再評』、宣長『国歌八論斥非再評ノ評』などが続き、論争が巻き起こった。
- 『百人一首批釈』 - 『小倉百人一首』批評注釈。
- 『雅筵随筆』