大藤紀一郎
大藤 紀一郎 | |
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別名 | 高紀、高郷、高稔 |
個人情報 | |
生誕 |
建丸 弘化3年10月3日(1846年11月21日) |
死没 | 1881年(明治15年)頃失踪 |
宗教 | 神道 |
配偶者 | 多喜の |
子供 | やすの、つるよ、松枝、春雄 |
両親 | 藤井高雅、松野 |
別名 | 高紀、高郷、高稔 |
寺院 | 吉備津神社、沼名前神社 |
聖職 | 権祢宜、祢宜 |
大藤 紀一郎(おおふじ きいちろう)は幕末・明治初期の神職。岡山県吉備津神社権祢宜、広島県沼名前神社祢宜。
生涯
[編集]弘化3年(1846年)10月3日備中国吉備津宮社家藤井高雅の子として生まれた[1]。母松野は出産当日死去した[1]。幼名は建丸、名は高紀[2]、高郷、後に高稔[3]。
安政元年(1854年)9月2日父が家督相続を願い出るも、許可されなかった[4]。万延元年(1860年)11月15日元服し[5]、文久元年(1861年)父から社職を譲り受け[6]、社司・社家頭となった[2]。
文久3年(1863年)7月25日父が京都で暗殺されると、30日朝五つ時大坂の緒方拙斎から飛脚便で第一報を受け[7]、同日父は無断で他国に滞在した罪で除籍となり、紀一郎も父に諫言しなかった罪で押込を命じられた[8]。
8月2日暮六つ過ぎ、父の滞在先だった山田源兵衛から書状が届いて上京を求められ[9]、5日倉敷代官大竹左馬太郎からも呼出状が届き、上京して遺体を引き取り、敵討ちをするよう促されたが、祖母の許可が得られないとして断った[10]。
大藤家には多額の借金が残されたが、大坂屋源介(林孚一)には本居宣長の短冊1枚で百数十両の借金を帳消しにしてもらう温情を受けた[11]。
明治5年(1872年)11月18日吉備津神社権祢宜に補され、1873年(明治6年)士族に編入された[2]。1876年(明治9年)5月7日広島県沼名前神社祢宜に転じた[2]。
1881,2年(明治14,5年)頃失踪した[3]。
和歌
[編集]- 花「かたらはぬ人にひかれてけふもまた一めぐりせり花のなかやま」[3]
- 夏月易明「かくるかとみればはれ行くむら雲のはやくもあくるなつの夜の月」[3]
- 雨中緑竹「ことし生の深きみどりの竹の葉のうらさびしくもそそぐあめかな」[3]
- 忍涙恋「もらさじとつつむ心のよはければこぼれがちなる我なみだかな」[3]
大藤家
[編集]大中臣氏、藤原氏又は楽々森彦命を祖とする社家藤井高利家(三日市藤井氏)に属する[12]。嘉永3,4年(1850,1年)頃、父高雅は『今昔物語集』「地蔵菩薩を念ずるに依りて主に殺さるる難を遁るる語」に見える大藤大夫(藤原文時)を先祖と称し、家号を大藤と定めた[13]。
- 父:藤井高雅 - 吉備津宮社家頭。尊王攘夷派に暗殺された。
- 母:松野 - 藤井高豊遺女[1]。文政4年(1821年)2月14日生[14]、弘化3年(1846年)10月3日没[1]。
- 妻:多喜の - 備前国赤磐郡小野田村(岡山県赤磐市熊山地域)木梨家次女。死別後、御津郡大野村高柳(岡山市北区)河野寿吉に再嫁した[2]。
脚注
[編集]- ^ a b c d 井上 1911, p. 11.
- ^ a b c d e 藤井 1944, p. 藤井氏系図.
- ^ a b c d e f 藤井 1944, p. 91.
- ^ 藤井 1944, p. 124.
- ^ 藤井 1944, p. 125.
- ^ 井上 1911, p. 10.
- ^ 藤井 1944, p. 64.
- ^ 藤井 1944, p. 66-67.
- ^ 藤井 1944, p. 67.
- ^ 藤井 1944, p. 69.
- ^ 藤井 1944, p. 73.
- ^ 藤井 1944, pp. 7–8.
- ^ 藤井 1944, pp. 42–43.
- ^ 井上 1911, p. 9.
- ^ 藤井 1944, p. 123.
- ^ a b c d 清水.