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大藪守治

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
大藪守治
おおやぶ もりじ
生年月日 1883年10月14日
出生地 日本の旗 日本 福岡県久留米市
没年月日 (1945-10-15) 1945年10月15日(62歳没)
出身校 早稲田大学修了
前職 学校経営
所属政党 研究会
親族 父・大藪房次郎(衆議院議員)
義兄・金杉英五郎(貴族院議員)

在任期間 1932年9月29日 - 1945年10月15日
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大藪 守治(おおやぶ もりじ、1883年明治16年)10月14日[1] - 1945年昭和20年)10月15日[2][3])は、日本の実業家政治家貴族院多額納税者議員

経歴

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福岡県久留米市苧扱川町(現:久留米市本町)で、実業家・大藪房次郎の三男として生まれる[1][2]。両替町(現: 城南町)に分家した[2]早稲田大学を修了後、欧米に遊学した[3][4]

1909年(明治42年)以降、筑後水力電気社長、九州水力電気取締役、筑後電気取締役、昭和電灯取締役、九州電気協会評議員、久留米商工会議所顧問などを務めた[2][3][4]。筑後水力電気が九州水力電気に合併した際に、その分配金について紛争が生じたが、他の重役よりも社員を優先する立場に立って処理を行った[2]

また、久留米教育支会からの強い要望を受けて、1928年(昭和3年)3月、有馬頼寧との共同経営で久留米昭和高等女学校を設立し、翌年4月に開校した[2][5]。その後、同校は久留米家政女学校の後身校と合併し、現在は福岡県立久留米高等学校となっている[2][5]

1932年(昭和7年)9月29日、貴族院多額納税者議員に就任し[3][6]、1939年(昭和14年)9月29日に再任され[7]研究会に所属して活動したが在任中に死去した[3][8]

親族

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脚注

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  1. ^ a b c d 『人事興信録』第5版、を118頁。
  2. ^ a b c d e f g 『久留米人物誌』172頁。
  3. ^ a b c d e 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』192頁。
  4. ^ a b c 『人事興信録』第14版 上、オ167-168頁。
  5. ^ a b 『久留米市史』第3巻、900-901頁。
  6. ^ 『官報』第1727号、昭和7年9月30日。
  7. ^ 『官報』第3823号、昭和14年9月30日。
  8. ^ 『官報』第5637号、昭和20年10月25日。

参考文献

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  • 衆議院・参議院『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
  • 『久留米市史』第3巻、久留米市、1985年。
  • 篠原正一『久留米人物誌』久留米人物誌刊行委員会、1981年。
  • 人事興信所編『人事興信録』第14版 上、1943年。
  • 人事興信所編『人事興信録』第5版、1918年。