大野真鷹
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時代 | 平安時代初期 |
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生誕 | 延暦元年(782年) |
死没 | 承和10年2月3日(843年3月7日) |
官位 | 従四位下・右近衛中将 |
主君 | 嵯峨天皇→淳和天皇 |
氏族 | 大野氏 |
父母 | 父:大野真雄 |
兄弟 | 真鷹、真菅、鷹子 |
子 | 春鷹 |
大野 真鷹(おおの の またか)は、平安時代初期の貴族。左近衛中将・大野真雄の子。官位は従四位下・右近衛中将。勲等は勲七等。
経歴
[編集]弘仁元年(810年)春宮坊の主馬首に任ぜられて皇太子・大伴親王(のち淳和天皇)に仕え、左兵衛少尉・右衛門少尉を経て、弘仁12年(821年)従五位下に叙爵。のち、散位頭・大監物・左兵衛佐を歴任する[1]。
淳和朝に入ってまもなく、天皇の皇太子時代からの旧臣であるとして従五位上・右近衛権少将に任ぜられると、天長7年(830年)正五位上・右近衛中将、天長9年(832年)従四位下と順調に昇進した。天長10年(833年)2月に淳和天皇が退位して有閑の日々を過ごすようになっても、なおも真鷹は朝廷に出仕し続けるが、同年11月の大嘗会の警固の陣に供奉しその陣が解かれると、真鷹は帯びていた武具を右近衛権中将・藤原助に贈り、山城国綴喜郡の邸宅に退去して隠棲し、出仕を取りやめた[1]。
その後、紀伊権守に任ぜられるが赴任することなく、承和10年(843年)2月3日卒去。享年62。最終官位は散位従四位下[1]。
人物
[編集]生来学問はなかったが、鷹狩を好み、公務にあたっては早朝から深夜まで怠ることなく努め励んだ。平素より俸給を割いて写経や造仏を行っていたが、他人に知らせることはなかった。老齢に到ると、一途に供養や修行に励み、遺族が追善法要に関して煩うことがないようにした。父・真雄と共に父子で武門として行跡を同じくし、我々はこの父子に及ばず残念だと、見る者を嘆息させたという[1]。
官歴
[編集]『六国史』による。
- 弘仁元年(810年) 日付不詳:春宮坊主馬首
- 時期不詳:左兵衛少尉。右衛門少尉
- 弘仁12年(821年) 日付不詳:従五位下
- 時期不詳:散位頭・大監物・左兵衛佐
- 天長元年(824年) 日付不詳:右近衛権少将
- 天長2年(825年) 正月4日:従五位上
- 天長7年(830年) 閏12月16日:正五位上、右近衛中将
- 天長9年(832年) 正月7日:従四位下
- 承和年間:紀伊権守
- 承和10年(843年) 2月3日:卒去(散位従四位下)