大関和七郎
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時代 | 江戸時代末期(幕末) |
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生誕 | 天保7年(1836年) |
死没 | 文久元年7月26日(1861年8月31日) |
改名 | 忠次郎、恒右衛門、増美、酒泉好吉 |
墓所 | 水戸市松本町の常盤共有墓地 |
官位 | 贈正五位 |
主君 | 徳川斉昭→慶篤 |
氏族 | 黒澤氏→大関氏 |
父母 | 父:黒澤勝正、母:黒澤勝政の娘、養父:大関増賀 |
兄弟 | 黒澤忠三郎、大関和七郎 |
大関 和七郎(おおぜき わしちろう)は、江戸時代末期(幕末)の水戸藩士。桜田門外の変で井伊直弼襲撃に参加した桜田十八士の1人である。実兄に黒澤忠三郎、甥に広岡子之次郎がいる[1]。
弘化3年(1846年)に叔父である大関恒右衛門増賀の養子となって150石の家督を継いだ。安政2年(1855年)に馬廻組に任命され、安政5年(1858年)には大番組に編入される。安政6年(1859年)に戊午の密勅が下ると、兄の黒澤と同じく過激な尊王攘夷派だったことから、返納に反対して奉勅を訴えた。このため幕府の後ろ盾があった藩保守派より圧力を受け、商人に変装して名も酒泉好吉と改めて江戸に潜入する[1]。
安政7年(1860年)3月3日の桜田門外の変では大老・井伊直弼の襲撃に参加する。井伊を討ち取ったが負傷したため、肥後熊本藩の江戸藩邸に自首する。後に越中富山藩邸、更にその後但馬豊岡藩邸に拘禁された[1]。
文久元年(1861年)7月26日に幕府の評定において死罪となり、斬首された。享年26。明治31年(1898年)、正五位を追贈された[1][2]。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 家臣人名事典編纂委員会編『三百藩家臣人名事典 (2)』 (新人物往来社、1988年) ISBN 4404014902