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大関増次

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
大関増次
時代 戦国時代
生誕 永正15年(1518年
死没 天文11年12月20日1543年1月25日[1][2]
別名 弥五郎[2][3]
戒名 久遠院殿超山道宗大居士[3]
主君 那須資房
氏族 大関氏
父母 父:大関宗増
兄弟 養兄弟:高増大田原資清長男)
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大関 増次(おおぜき ますつぐ)は、戦国時代武将那須氏の家臣。下野国白旗城主。(現在の栃木県大田原市(旧黒羽町))

大関氏武蔵七党丹党流とされ、那須七騎の一つ。永正15年(1518年)、大関宗増の子として誕生。

天文11年(1542年)、かつて父・宗増の讒言によって追放された大田原資清の復讐の的とされ、増次が少人数で鷹狩りに出た隙に、資清の奇襲を受け、石井沢で戦うが敗死した。享年25。

後継者を失った父・宗増は資清の子である高増を養子に迎えざるを得なくなった。

脚注

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  1. ^ 『史料綜覧』第9編之910 160頁
  2. ^ a b 『大関増勤家譜』
  3. ^ a b 『寛政重修諸家譜』

出典

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