大蛇潟粂藏
大蛇潟 粂藏(おろちがた くめぞう、1891年4月15日 - 1933年5月15日)は、秋田県能代市出身で錦島部屋に所属した大相撲力士。本名は宮腰 粂藏(のちに錦島姓)。最高位は西関脇。現役時代の体格は175cm、113kg。得意手は左四つ、寄り。
来歴
[編集]明治時代に幕内力士だった7代錦島に入門し、1905年(明治38年)1月場所に序ノ口から初土俵を踏む。実力は高く18歳2か月で迎えた1909年(明治42年)6月場所に「能代潟」の四股名で十両昇進、翌1910年(明治43年)6月場所、19歳2か月で入幕、師匠の現役時代の四股名だった「大蛇潟」に改めた。当時は年2場所時代で、彼に近いスピードでの若年昇進といえばのちの第33代横綱武藏山が挙がるが、大蛇潟の入幕は武藏山よりも3か月早いものだった。
当時としては大柄の色黒な体で「黒糸縅」のあだ名があり、左を差しての正攻法の相撲を取った。1914年(大正3年)1月場所では初日に大関2代西ノ海を倒すと、3日目には横綱常陸山を寄り切りで破り金星を挙げる活躍を見せ、この場所7勝3敗の好成績で翌6月場所に新三役(関脇)となった。その後も三役から幕内上位で活躍したが足の故障やリウマチに罹るなどして盛りは短く、1919年(大正8年)5月場所、2場所連続全休したのを最後に現役を引退した。
現役中に師匠が没したため、現役中に二枚鑑札で年寄錦島を襲名、そのため1918年(大正7年)からの2年間は「錦島三太夫」の名で土俵に上がった。錦島を名乗る直前の1年は「大響」の四股名で取っていた。先代からの預かり弟子である大蛇山、大関能代潟と2人の幕内最高優勝者を出すなど弟子には恵まれたといえる。なかでも十両時代の四股名を譲った能代潟との師弟愛は有名で、1932年(昭和7年)1月の春秋園事件の際には脱退を勧誘された能代潟が「儂は紙屑拾いをしても師匠を養うのだ」と断った逸話が知られている。この逸話が広まり、『錦島三太夫』の題名で舞台化もされた。温厚、篤実な性格で人望があり、春秋園事件直後に協会取締にも就任したが、翌1933年(昭和8年5月15日)に42歳で没した。