大須賀清光
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大須賀 清光(おおすが せいこう、文化6年(1809年)4月 - 明治8年(1878年)6月17日)は、日本の江戸時代末期に活躍した町絵師。名は清光、通称は喜知松、号ははじめ蘭斎、のちに皎斎。地元・会津を題材にした郷土愛あふれる作品を数多く手掛けた。
略伝
[編集]先祖は蒲生家旧臣で、蒲生家が会津を去った後に商人となったという。清光も裕福な商人出身で、幼少から画を好み、旦那芸として佐藤香斎に書画を学んでいたが、後に画道に熱中するあまり家産を傾けたという。一方、漢学を山内穆斎、和歌を相川功垂に学んだという。
代表作としては、下記のように複数確認されている「若松城下絵図」が挙げられる。これらは作品ごとに書き込まれている武家屋敷の名称が変わっていたり、藩の施設や寺院の描写も変化が認められる。このことは清光が単に同じ作品を量産していたわけではなく、内容の正確さを求めて常に質の向上を図っていたことをうかがわせる。他にも会津生まれの教訓書『万民心の鑑』、会津の歴史や地理を紹介した『会津千代松紬鑑』、若松を中心とした会津の文人名鑑『鶴城風雅集』、会津の何でもランキング「若松緑高名五幅対」などの挿絵も手掛けており、会津の人・物・風景を出来るだけ正確に複合的に記録しようとする、清光の会津への強い想いを感じさせる。
作品
[編集]作品名 | 技法 | 形状・員数 | 寸法(縦x横cm) | 所有者 | 年代 | 落款・印章 | 備考 |
---|---|---|---|---|---|---|---|
若松城下絵図 | 1幅 | 118.5x182.0 | 会津若松市立会津図書館 | 款記「清光圖之画」 | 最初期の若松城下絵図か。 | ||
若松城下絵図屏風 | 六曲一双 | 個人 | |||||
若松城下絵図屏風 | 六曲一双 | 90.8x271.8(各) | しろはく古地図と城の博物館富原文庫 | 1851年(嘉永4年) | 款記「辛亥 皎齋清光圖之画」 | ||
若松城下絵図屏風 | 八曲一隻 | 135.0x484.0 | 福島県立博物館 | 款記「大須賀清光之圖画」 | 高瀬家旧蔵。若松城下を描いた作品の最終段階とも言える作品で、そのためか唯一フルネームで署名している。 | ||
若松城下図・追鳥狩図屏風 | 六曲一双 | 若松城下図:109.0x278.6 追鳥狩図:109.3x279.0 |
福島県立博物館 | 各隻に「清光」印 | 追鳥狩(おいとりがり)とは、会津藩が藩主在国の年に行っていた軍事教練で、群衆も見物していた一大イベント。 | ||
追鳥狩図屏風 | 六曲一隻 | 142.7x352.4 | 個人(会津若松市寄託) | 款記「皎齋清光圖之画」 | |||
追鳥狩図屏風 | 個人(福島県立博物館寄託) | ||||||
松下群鶴図屏風 | 六曲一隻 | 157.0x342.4 | 個人 | 款記「皎齋清光画」 | |||
賤ヶ岳戦陣図屏風 | 六曲一隻 | 130.0x285.0 | 二本松市教育委員会 | 款記「皎齋清光画」 | 豊臣秀吉の周りを賤ヶ岳の七本槍が囲む。居並ぶ中で旗指物に唯一大きく「糟谷助右衛門武則」と書かれており、会津藩に仕えていた糟屋武則の弟の子孫である加須屋家周辺で制作・伝来した可能性が高い。 | ||
江戸城登城風景図屏風 | 八曲一隻 | 111.0x365.6 | 国立歴史民俗博物館 | 1847年(弘化4年) | 款記「皎齋清光画」 | 江戸時代の定例行事の一つ、大名の江戸城登城を描いた作品。登城風景を描いた絵は幾つも確認されているが、本作のように行列自体より、その従者や見物客、更に彼らに『武鑑』や蕎麦、酒などを売る行商たちを細かく描写した作品は珍しい。他の文献資料と突き合わせると、絵画ならではの脚色も見られるものの、かなり正確に登場を風景を描き出しているのがわかる[1]。描かれた場所は和田倉門内の会津藩上屋敷前で、清光は実際に上屋敷から見た風景を元に本作品を手掛けたと考えられる。なお、所蔵する歴博サイトに本図の詳細な画像が掲載されている[2]。 | |
蛤御門の変図屏風 | 六曲一隻 | 157.0x366.0 | 会津若松市 | 款記「皎斎清光画」 | |||
長尾家屋敷絵圖屏風 | 八曲一隻 | 109.0x475.0 | 個人 | 1868年(明治2年) | 款記「皎齋清光圖画」 | 会津の豪商・長尾家の大邸宅を強調して描いた作品。その邸宅は戊辰戦争で灰燼に帰してしまい、この絵だけが往時の繁栄を伝えている。 |
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 福島県立博物館編集・発行 『開館三十周年記念企画展 幕末!若松!喜知松?大須賀清光の屏風絵と番付』 2016年4月23日