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天野昇

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
あまの のぼる

天野 昇
生誕 1924年3月1日
日本の旗 日本岡山県
死没 (1997-11-24) 1997年11月24日(73歳没)
国籍 日本の旗 日本
出身校 東京帝国大学
職業 原子力研究者
肩書き 日本原子力研究所副理事長
日本原子力学会副会長
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天野 昇(あまの のぼる、1924年大正13年〉3月1日[1] - 1997年平成9年〉11月24日[1])は、日本の原子力研究者。日本原子力研究所副理事長、日本原子力学会副会長を務めた。岡山県出身。

経歴

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生い立ち

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1924年(大正13年)に岡山県で生まれる。旧制高梁中学(現:岡山県立高梁高校)へ進学し、1940年(昭和15年)に卒業。同年、旧制第六高等学校理科甲類へ入学し[2]、1943年(昭和18年)卒業を経て[3]、東京帝国大学へ入学、1945年(昭和20年)に日本が第二次世界大戦で敗北し、3年次で東京帝国大学工学部電気工学科を繰り上げ卒業となる[4]

研究者として

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卒業後、1939年に東京電気芝浦製作所が合併して誕生した東京芝浦電気(現:東芝)へ入社。旧東京電気の流れを汲む実験室がマツダ研究所と名前を変えたのが1947年であり[5]、天野はそこに所属した。天野は主に計測機器の開発を担当し、1952年には、「X線強度の自働安定」という医療用のCTスキャン等の光源に用いられるX線を一定の強さで安定して放出する研究をしていた[6]。そんな折、1956年(昭和31年)6月15日に原子力研究所財団法人から特殊法人となる[7]。発足した当初の原研は人手不足が深刻であり、それを解消するため、一般企業に募集をかけた結果、日立製作所三菱重工、東芝等のメーカーからそれぞれ2~3人づつ採用した[7]。その中の一人に、後に原子力研究所副理事長を務める天野がいた。

原研に入所すると、東芝の研究で行っていた分野と同じ計測グループに所属し[8]、1958年には、国産の原子力第1号炉の計測系設計等を担当した。1966年(昭和41年)には、原研動力炉開発部長となり、1972年(昭和47年)48歳の時に、原研動力炉開発の副所長、1975年、原子力研究所理事を経て、1980年(昭和55年)56歳の時に原研副理事長となった[4]。その1年後、日本原子力学会の副会長を2年務めた[9]。1997年に死去、73歳であった[10]

脚注

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  1. ^ a b 『「現代物故者事典」総索引 : 昭和元年~平成23年 1 (政治・経済・社会篇)』日外アソシエーツ株式会社、2012年、43頁。
  2. ^ 第六高等学校一覧 自昭和15年至昭和16年 p.96 天野昇
  3. ^ 第六高等学校一覧 昭和17至18年 p.107 天野昇
  4. ^ a b 原子力産業新聞 第1040号 昭和55年8月7日 原研副理事長に天野昇氏
  5. ^ 概要 歴史 | 研究開発センター | 東芝”. www.global.toshiba. 2024年12月3日閲覧。
  6. ^ 寺田, 實男; 天野, 昇 (1952). “X線強度の自働安定”. 応用物理 21 (8): 305–308. doi:10.11470/oubutsu1932.21.305. ISSN 0369-8009. https://cir.nii.ac.jp/crid/1390001204629950336?lang=ja. 
  7. ^ a b 先覚者齋藤憲三 講師 :山崎貞一 (東京電気化学、TDK社長 、会長) 開催日:1988年 質問者:島村武久 p.174
  8. ^ 原子力平和利用開始頃の思い出 住田健三 著 p.7
  9. ^ 歴代会長・副会長”. 日本原子力学会. 2024年12月3日閲覧。
  10. ^ 松浦, 祥次郎 (1998-03). “天野昇先輩を悼む”. 日本原子力学会誌 = Journal of the Atomic Energy Society of Japan 40 (3): 215–216. ISSN 0004-7120. https://cir.nii.ac.jp/crid/1571980074040434048.